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南都焼き討ちと東大寺再建に使われた道 今回は奈良と京都を結ぶ「京街道(奈良街道)」を選びました。大阪と京都を結ぶ道も「京街道」ですが、ここにもあります。ところで、源義経の大活躍により、「一の谷の合戦」で源氏は平家を破りました。平清盛の五男・重衡(しげひら)は捕らわれの身となり、自らが焼き討ちをした南都の奈良で処刑されます。それと関係の深いところが、この道にはあるようです。 |
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南都詣と材木運搬の道 <奈良阪越え京街道の地図はこちら> | |
![]() どう使われた道だったのでしょうか。 「平安遷都後は神社仏閣の多い南都・奈良へ詣でる人が絶えなかった道です。また、鎌倉時代の東大寺再建時には、材木が通った道でした。材木は瀬戸内海から淀川と支流の泉川を通って泉大橋へ着きましたが、木が着いた港なので『木津』と名が変わりました」 |
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戦乱の舞台となったお寺 | |
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京街道についても伺いました。 「飛鳥時代から開かれていた道で、都の造営時にも大仏さんの造営時にも材木を運んだそうです。平安時代には、藤原氏の菩提寺が興福寺であり、鎮守が春日大社のため、大勢の藤原貴族がこの京街道で奈良にやって来ました。天皇や上皇までやって来て、1万人を超えるような行幸があったと記録に残っています。川を船で渡るだけでも、何日もかかったようです」 他にもこのお寺は歴史の舞台となったようです。 「太平記によりますと、南北朝の争いの初期、笠置山に立てこもった天皇方に対して、鎌倉幕府の京都・六波羅の軍勢が山を取り囲みました。その際、般若寺の本性房という怪力のお坊さんが戦勝祈願のお札を持って笠置山へ入ったとか、後醍醐天皇の息子さんの護良親王が敵に追われて般若寺に逃げ込んだとかいった話があります。お経の箱に入って難を逃れました。漆塗りの木箱で、今も本堂にあります。その他、室町時代には一揆の集結場所となり、戦国時代には東大寺と一緒に焼かれるなど、度々戦乱の地として歴史に登場します」 |
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