ホーム パーソナリティ紹介 これまでの放送-放送日から検索 これまでの放送-地図から検索 番組あてメール ラジオ大阪

南都焼き討ちと東大寺再建に使われた道
今回は奈良と京都を結ぶ「京街道(奈良街道)」を選びました。大阪と京都を結ぶ道も「京街道」ですが、ここにもあります。ところで、源義経の大活躍により、「一の谷の合戦」で源氏は平家を破りました。平清盛の五男・重衡(しげひら)は捕らわれの身となり、自らが焼き討ちをした南都の奈良で処刑されます。それと関係の深いところが、この道にはあるようです。


京奈和自動車道
 京都からスタートし、奈良市北部と京都府木津町との境界近くを目指して京奈和自動車道を走っています。この道は京都市と和歌山市を結ぶ約120kmの道路で、区間を区切って工事が行われていて、京都の城陽インター〜木津インター間が完成しています。その先の奈良市と大和郡山市の区間は、世界遺産に登録されている平城宮跡をはじめ貴重な文化財が多い地域を通過することになるため、計画の検討にあたっては、早い段階から幅広い市民の意見を反映するPI(パブリック・インボルブメント)手法を用いて、貴重な文化財の保全と調和のとれた道路となるように検討を進めているところです。

   南都詣と材木運搬の道           <奈良阪越え京街道の地図はこちら>
 

京街道(奈良阪町)
 木津インターを降りて東へ5分ほど、奈良市北部の県道754号の1本西側の道に来ました。般若寺や古い街道を思わせる大和格子の家があります。地元「奈良阪町」の歴史に詳しい村田昌三(しょうぞう)さんにお付き合いいただき、京都方面へと散策します。県道754号は以前、国道だったようです。
「旧国道24号です。昭和15年に皇紀2600年を記念して造られた道で、その西側の古いこの道は奈良阪町を通っており、『京街道』あるいは『奈良街道』と言われています」

 どう使われた道だったのでしょうか。
「平安遷都後は神社仏閣の多い南都・奈良へ詣でる人が絶えなかった道です。また、鎌倉時代の東大寺再建時には、材木が通った道でした。材木は瀬戸内海から淀川と支流の泉川を通って泉大橋へ着きましたが、木が着いた港なので『木津』と名が変わりました」

   戦乱の舞台となったお寺           
 

般若寺楼門は国宝
 花のお寺としても有名な般若寺にお邪魔し、ご住職の工藤良任(りょうにん)さんに伺いました。ここは平重衡と関係があるお寺です。
「平家物語によりますと、治承4年、平清盛が興福寺へ大軍を押し寄せましたが、その時の総大将が平重衡でした。この辺りで興福寺の僧兵と平家の軍勢がぶつかり、1日戦って夜になり、重衡が門前で灯りを取るため民家に火を着けろと命じたんですね。ところが、折からの北風にあおられて、東大寺や興福寺、元興寺といった天平の大伽藍を全部焼き尽くしてしまった。その後、一の谷の合戦で源氏に捕らわれた重衡は、興福寺の僧侶の希望により木津川の河原で処刑されましたが、その首がこの般若寺の門前で長らくさらされました」 


般若寺はヤマブキとコスモスの名所
 京街道についても伺いました。
「飛鳥時代から開かれていた道で、都の造営時にも大仏さんの造営時にも材木を運んだそうです。平安時代には、藤原氏の菩提寺が興福寺であり、鎮守が春日大社のため、大勢の藤原貴族がこの京街道で奈良にやって来ました。天皇や上皇までやって来て、1万人を超えるような行幸があったと記録に残っています。川を船で渡るだけでも、何日もかかったようです」

 他にもこのお寺は歴史の舞台となったようです。
「太平記によりますと、南北朝の争いの初期、笠置山に立てこもった天皇方に対して、鎌倉幕府の京都・六波羅の軍勢が山を取り囲みました。その際、般若寺の本性房という怪力のお坊さんが戦勝祈願のお札を持って笠置山へ入ったとか、後醍醐天皇の息子さんの護良親王が敵に追われて般若寺に逃げ込んだとかいった話があります。お経の箱に入って難を逃れました。漆塗りの木箱で、今も本堂にあります。その他、室町時代には一揆の集結場所となり、戦国時代には東大寺と一緒に焼かれるなど、度々戦乱の地として歴史に登場します」


  般若寺

 ■拝観料/大人400 円、
     中学高校生200 円、小学生100 円
 ■拝観時間/午前9時〜午後5時
 ■寺宝特別展/4月29日〜5月10日
 ■TEL /0742-22-6287
 *ヤマブキの花が4月中旬から見ごろ