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明石市の西隣の高砂市、山陽電鉄曽根駅近くの「曽根天満宮」に来ました。後に神様や仏様とされた偉人には神がかり的な伝承がありますが、道真もそうで、曽根天満宮は菅公の奇跡から始まったとされています。宮司の曽根文省(ふみよし)さんに伺いました。 |
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「300年ほど前に作られた古霊松の10分の1の模型も残されていて、華麗な姿を忍ぶことができます」 菅公は太宰府でどんな暮らしをしていたのでしょう。 「罪人扱いなので給料は支給されず、その日の食事にも困る状況でした。本を読み漢詩を作るための明かりを取る油が手に入らず寂しい、門を一歩も出ずじっとしている、という悲しい詩を大宰府で多く作っています。道真さんは政治家であり学者ですが、不遇の生活で詩人としての才能が花開き、その漢詩が「菅家文草(かんけもうぞう)」として多く残されていて、今でも親しむことができます。同行した隈麿(くままろ)という子供が食事の確保に走り回り、村人も正面から持っていくと役人ににらまれるため、梅の枝に焼き餅を付けて窓の外から渡したようです。それが『梅ヶ枝餅』として大宰府天満宮の名物になったと伝えられています」 |
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「都会では夏祭りが盛んですが、播州は秋祭りが盛んで、ここも10月13〜14日は祭りでにぎわいます。『布団屋台』が勢揃いして宮入りし、子供が宮入りする『一ツ物(ひとつもの)』という神事もあります。山鳥の羽が付いた花笠、裾長の狩衣を着て、額に八の字を書いた子供の宮入りが、中世の匂いを今に伝えています」 |
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曽根天満宮 |
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![]() 菅原道真は大阪から船で海を行き、和田岬から陸路を行ったという説がありますが、大阪湾岸道路もポートアイランドを経由して海から和田岬で上陸、名谷ジャンクションにつながるそうで、菅公の道と一致します。この道沿いに菅公の史跡がいろいろあるのを初めて知りました。 |
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