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   朝鮮人街道と中山道が交差   

 

鳥居本宿の道標 右下は合羽屋の看板
 彦根城の北東部、国道8号線の東側に古い街道が通っています。中山道の鳥居本宿です。旅に欠かせない薬や合羽の店の看板が、今も残っています。この鳥居本宿の南のはずれに、「右彦根道、左中山道・京いせ」の道標があります。彦根道は朝鮮人街道でもあり、ここが中山道との合流点になります。でも、朝鮮通信使は、京都を出て栗東から大動脈の東海道、つまり三重方面へ抜けず、なぜ中山道まで北上したんでょう。
 それを探りに湖北へと向かうことにしました。道は国道8号。敦賀から新潟へと続くこの道は、彦根〜長浜間の渋滞が激しいため米原パイパスが順次建設されています。以前から開通済みの長浜〜近江間2km半に加え、今年3月、米原町内で約3kmが開通しました。計画の半分が開通しました。

   雨森芳洲と通信使の交流   

 

雨森芳洲
 国道8号で湖北の町、高月町に来ました。朝鮮通信使と関係の深い人物・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の出身地です。「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」館長の平井茂彦さんに伺いました。
「儒学者だった芳洲は、朝鮮通信使の対応をしていた九州の対馬藩に仕え、朝鮮通信使の世話役を務めました。芳洲は中国語を学び、釜山の日本人町へ何度も行って朝鮮語を習得。当時、中国語と朝鮮語の話せる唯一の日本人だったようです。朝鮮通信使は室町時代からあり、秀吉の朝鮮出兵後に途絶えたものの、家康が友好関係を結んで復活させ、江戸時代には12回日本を訪れています。最初の3回は朝鮮出兵時に日本に連れて来た捕虜を朝鮮に送り返すためでしたが、以後は将軍の代替わりのお祝いに訪れました。芳洲が関わったのは正徳元(1711)年の第8回と享保4(1719)年の第9回で、一緒に江戸へ行っています」


雨森芳洲庵
 どんなルートを通ったのでしょう。
「ソウルから歩いて釜山へ。釜山から6隻の船で対馬、そして九州に渡り、瀬戸内の港をたどって大阪へ来ると、今度は淀川をさかのぼり、京都からは東海道で江戸へ行きました。滋賀では東海道でなく、家康が関ヶ原勝利後に京へ上った縁起のいい道を通ってもらいました。それが今の朝鮮人街道です」
 朝鮮通信使は貢ぎ物を献上しに来たのだと、日本では誤解されがちです。
「江戸時代、朝鮮や琉球は『通信の国』であり、通信には信(よしみ)を通わせるという意味があります。対等なお付き合いをする関係で、貢ぎ物を持ってやってきたわけではありません。日本からも行ったようですが、過去の秀吉の侵略から警戒され、釜山から中には入れてもらえませんでした。朝鮮通信使は江戸時代に約200年続きましたが、やがて朝鮮を見下げる傾向が出てきて、通信使は途絶えました」
 芳洲はかなり通信使と交流を深めたようです。
「芳洲が偉いのは朝鮮語を話し、相手の気持ちがよく分かった点です。朝鮮側の記録に芳洲の話がたくさん出てきます。それを読むと、彼の考え方や苦労が分かります。言葉を話せたことで記録に残り、当時の様子が伝えられているわけです」

 

  東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
 ■開館時間/9:00〜16:00
 ■休館日/毎週月曜日、祝日の翌日
 ■入館料/大人250 円、中学生以下無料
 ■TEL/0749-85-5095



朝鮮人街道を訪ねました。古い街並みや豊かな自然のなかで、日朝交流の歴史があったことを知り、滋賀県の新たな側面を見た気分になりました。