朝鮮通信使が歩いた日朝友好の道 |
|
|
名神高速道路を竜王インターで下りて琵琶湖方向へ。田園地帯を抜け、近江八幡市のほぼ中心部、新町通に来ました。近江八幡は、豊臣秀次を領主に43万石の城下町として栄えた近江商人の町。両てんびんを担ぎ、質素倹約を旨として各地を行商した近江商人の名残をとどめるのが、この新町通の古い街並みで、それと交差するのが朝鮮人街道です。周辺には近江八幡市立資料館や郷土資料館などの施設が並びます。街道を少し京都方面に歩いたところにある本願寺八幡別院では朝鮮通信使の偉い方々が、そして、この周辺ではもう少し下の方々が、それぞれ昼食や休憩を取ったようですが、町をあげて彼らを歓迎したということです。 |
|
朝鮮通信使幹部が泊まった寺 <宗安寺の地図はこちら> | |
「宗安寺は朝鮮通信使、なかでも三使と呼ばれる正使、副使、従事官の宿泊場所に選ばれ、朝鮮国王の国書も安置されました。朝鮮通信使は500人から700人。それに対馬潘の一行も加わるため、相当数の人がお寺や町人の屋敷に宿泊しました。このお寺では、使節のため部屋を直し、お風呂やトイレを新築しました。費用の見積もりの写しも残っています。彦根藩は橋も新しくし、今の金額で6400万円ほどを費やし、そのうち3割程度が宗安寺の費用に充てました。また、これとは別予算で特別な馳走も出して大歓迎しました」 |
|
「李朝高官の肖像画といわれている掛け軸があります。描かれているのは明の高官だという説もありますが、朝鮮通信使がもたらしたのは確実です。普段は複製を、特別な時は本物を公開しています。お寺に門は二つあり、赤い山門の横の黒門から、朝鮮朝鮮通信使の馳走などを運びこんだようです。宗安寺は浄土宗の寺で当時は肉食妻帯が禁じられていたため、特別に勝手口を造って肉などを入れたのでしょう」 |
|
弘誓山天白院宗安寺 |
|
|
|