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今庄は今も昔も交通の要衝
風薫る5月も残り2日。今日はそんな風に誘われるまま、福井県今庄町までドライブします。今庄は北陸街道と北国街道が交わる交通の要衝で、江戸時代は宿場町として栄えました。風光明媚な山あいの景色を楽しみながら、当時の旅人気分で訪ねます。



  今庄は今も交通の要衝
 

北陸自動車道

 名神高速の米原ジャンクションから北陸自動車道に入り、敦賀インターを過ぎ、まもなく目的地の今庄インターです。長く延びている福井県は、大阪方面から行く場合、目的地によって感覚が変わります。小浜あたりは舞鶴若狭自動車道でも国道162号でもすぐに行ける感覚。芦原温泉のあわら市や三国町、福井市あたりは石川県に近い北の方という感じ。また、和泉村や大野市は岐阜県に近い東という感覚です。しかし、今庄町はその真ん中あたりに位置するため、どこへ行くにもまずここを目指せば便利。昔から交通の要衝だった理由も分かります。
 福井県と岐阜県は広範囲で接していますが、県境に白山など多くの山があるため抜けていける道が少なく、福井県河野村と岐阜県大垣市を結ぶ約150kmある国道417号も、県境の冠山(かんむりやま)峠で途切れています。そこは林道を通らなければならず、豪雪地帯のため冬場は5カ月間も通行止めになります。そのため、今、新しい道「冠山峠道路」が計画されています。長さ約8kmのうち、8割ほどがトンネル。これは険しい地形であることと、周辺がイヌワシ、クマタカ、オオタカなどの生息地であり、生息に重要な箇所をトンネルにしているためです。


  2000人が泊まる宿場  
 

今庄宿 中央右寄りの建物が京藤家
 北陸自動車道今庄インターから国道365号でJR北陸本線今庄駅近くの今庄地区に来ました。宿場町として栄えた今庄の街道沿いには、今も昔ながらの雰囲気が残っています。なかでも「京藤(きょうとう)甚五郎家」は、町の文化財にも指定されている瓦ぶき二階建てで、右が家屋兼造り酒屋、左が脇本陣という造りです。今庄町観光協会会長の寺田和義さんと、造り酒屋「北善商店」の北村善六さんに伺いました。まずは寺田さんに、今庄が栄えた理由から。
「今庄は琵琶湖の東を通る北国街道と西を通る北陸街道が交わる所で、旅人が山越えの後にいやでも泊まるため、宿場町として栄えました。福井の福井藩、大野藩、丸岡藩、鯖江藩、武生藩が参勤交代のたびに泊まり、加賀藩も通りました。また、全国的な旅ブームが起きたのも繁栄した理由の一つです」


京藤家の脇本陣部分
 この京藤家はどんな建物だったのでしょう。
「1830〜40年ごろに出来ました。今庄は1799年と1818年の2回、大火にあっているため、燃えないように塗籠(ぬりごめ)という土蔵造りになっています。土で覆われていて木が外に出ていません。京藤家は造り酒屋でしかも庄屋。そういう有数の家柄なので、ここを脇本陣にしました。こちら北村さんの本家の北村新平家は加賀藩の本陣でしたが、加賀藩が泊まる時は福井藩の本陣である後藤覚左衛門家を加賀藩の脇本陣にし、反対に福井藩が泊まる時は北村新平家を福井藩の脇本陣にして、お互い助け合いました。なんせ加賀藩だと2000人も来たんですから。それにここらで調達する馬1100頭、人夫1300人も入りました。布団や風呂桶なんかもみんな担いで来たそうです」


御札場跡(北善商店)
 北村さんにも伺いました。それだけ栄えた場所なら、造り酒屋ももうかったことでしょう。
「私とこは年貢米で造った酒を旅人に出す程度で、灘や伏見の大きな酒屋に対して『お神酒(みき)酒屋』と呼ばれる小さな酒屋でした。私で9代目、専務をしている10代目が酒造り担当です。今庄は山が珪石(けいせき)で包まれていて、軟水がそこを通ってくるため酒造りに最適です。4軒残っている酒屋も、水道は使わず山から引いたり井戸から汲み上げてたりして造っています」

 北村家は藩の仕事もしていたようです。
「一部を両替所(御勘定場)として福井藩に貸していました。4代藩主の時代、財政が苦しく、幕府から藩札を出す許可を得ました。藩札なので若狭や小浜などへ出る時は江戸の金銀銭が必要です。藩を出る時は全国共通の貨幣に、入る時には藩札に替える交換所だったんです」