ホーム パーソナリティ紹介 これまでの放送-放送日から検索 これまでの放送-地図から検索 番組あてメール ラジオ大阪

巨大な国技館もあった大阪市北東部を散策
大阪市中央区にある天満橋、大川が流れています。ここは古くから水上交通の要衝で、京の都とも淀川で結ばれていましたが、道の歴史を見ても、この辺りが京都への玄関口だったようです。今回はこの近くから始まっていた「京街道」を散策します。


   京への入り口、「京橋」            <「京橋」の地図はこちら>
 

「京橋」は京橋駅から離れている
 天満橋交差点から土佐堀通を3〜4分東に歩いて、「京橋」に来ました。京橋駅ではなく、寝屋川にかかる橋の京橋です。南に渡ると大阪城方面、北詰めが京街道の起点ですが、京都へ行く橋なので“京橋”なのでしょうか。「京橋川魚市場跡」の碑も建っています。 京街道については、事前に大阪歴史博物館学芸員の大澤研一さんに伺っています。
「京街道は大阪と京都を結ぶ、約38.5kmの街道です。京橋を起点に、野田、野江、関目、守口、枚方、淀から伏見へつながる、豊臣秀吉が整備した街道です。秀吉は大阪城築城後、淀城や伏見城を建てますが、それらの城を結んで軍隊を移動させるために京街道を整備しました。京街道は淀川左岸周辺の村を結ぶ道が前身なので、必ずしも今の国道1号とは重なりません」


野田橋跡
 江戸時代はどうなったのでしょう。
「東海道の一部になりました。東海道は(東から来る際)滋賀県大津で分岐して、一方は三条へ、もう一方は山科の辺りを通って、伏見、淀川左岸、そして大阪の京橋へと行きました。大阪と東海道を結ぶ道を造る時の重要なポイントは伏見。伏見に城を造り、すぐ近くの京都を押さえ、古くからある伏見と大津を結ぶ道を押さえることができました。だから、伏見と大阪を結ぶ道を整備する必要がありました。なお、伏見、淀、枚方、守口に宿を置き、後に“東海道五十七次”となります」

  <野田橋跡の地図>

昔の堤防上の道であるため両脇には坂や階段がある
 昔の京橋周辺の京街道はどんな風だったのでしょう。
「京橋から堤をしばらく行き、『野田橋』で『鯰江(なまずえ)川』を渡ります。野田橋は今では石碑が建っているだけ。鯰江川もありませんが、その堤防の雰囲気がよく残っていて、片町2丁目付近は道の両方が坂道になっています。そこを抜けると国道1号で、JR環状線のガード近くに道標が残っています。幕末の文政9年のもので、『左 京みち』などと書かれています」

 今でも街道っぽいところはどこでしょう。「地下鉄谷町線関目高殿駅の少し東梅田寄りに、『七曲がり』というところがあります。ここだけ取り残されたかのようにクネクネ曲がっていて、大阪市内で一番京街道の雰囲気があるのはここです」

  <この近辺の地図>

   右へ左へ「七曲がり」
 
都会の中の「榎並地蔵」
 では、京街道散策です。片町2丁目・旧鯰江川の土手を通り、京橋駅の北側に出て、「京かいどう(左 京みち)」の道標を見つつ、「新京橋商店街」を抜けました。商店街のたこやき店も方も、ここが京街道であることをよくご存じでした。

 アーケードを抜け、少し街道の雰囲気があるなかを5分ほど歩いた都島中通3丁目14に、「榎並地蔵」が祭られていています。大澤さんによれば、昔は村の出入り口にお地蔵さんを建てて、悪い病気などが村に入ってこないように願ったということです。

 <榎並地蔵の地図>

七曲がり
  榎並地蔵から北へ歩くと「都島通」に当たり、野江4丁目の交差点の少し西の道を北上、広い道を東に渡ってまた細い道に入り、いくつかクネクネすると、もう一度大通りに出て旭区に入りました。そして、「旭国道筋商店街」を真っ直ぐ行き、地下鉄関目高殿駅の手前を左に入れば、クネクネと右へ左へ曲がる「七曲がり」です。
  古い建物はないものの、昔の道はこういうふうだったのだろうなと思わせる曲がり方をしています。

  <七曲がりの地図>