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和歌山県下津町は日本のミカン発祥地
10月です。今回は秋の味覚を楽しむドライブの第一弾として、和歌山県へと下ります。そこは日本特有の温州(うんしゅう)ミカンの産地。リスナーの方から、ミカン発祥の地でもある下津町取材のリクエストをいただきました。今のミカンのルーツとなった木も残っているそうです。それでは、南に、太陽に向かって出発です。




阪和自動車道(海南湯浅道路へあと2q)
 阪神高速松原ジャンクションから阪和自動車道に入りました。海南インターを過ぎると海南湯浅道路になります。そして、吉備インターからは湯浅御坊道路となり、さらに御坊インターから再び阪和自動車道になって、みなべインターまで行けます。以前は遠かった大阪から南紀への道のりは、これで本当に近くなりました。今後も白浜町やすさみ町にまで延びる予定です。海南湯浅道路は大半がトンネルの道ですが、これからトンネルの“切れ目”にある下津インターで下りて、目的地へと向かいます。

 <海南自動車道路の地図はこちら>

   日本のミカンのルーツ
 

橘本神社の裏山もミカン畑
 下津インターを下りて住宅街を山手に上がると、両側はミカン畑。そこに「橘本(きつもと)神社」があります。かんきつ類を示す「橘」がつけば、ミカンと関係が深そう。周囲も鎮守の森というより、鎮守のミカン畑という感じです。宮司の前山和範さんに伺いました。
「鎮守の森も少しありますが、この山一帯がミカン畑になっています。御祭神は田道間守命(たぢまもりのみこと)で、日本書紀や古事記によると、第十一代垂仁天皇が田道間守命に不老長寿の薬を取って参れと命じ、田道間守命は苦労の末、中国から『非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)』という常にいい香りがする果物を持ち帰りました。今のタチバナ、ミカンの元です」
 

田道間守命が持ち帰ったタチバナの木
(代替わりして現在に至る)

  それがこの地に植えられたのは何故でしょう
「持ち帰ったものの、垂仁天皇は前年に亡くなっており、田道間守命はタチバナを御陵(奈良市・近鉄尼ケ辻駅近く)にささげ、嘆き悲しんで亡くなったそうです。そして、そのうちの6本が、ミカンの栽培に適した下津町橘本に植えられ、そこが当神社旧社地の『六本樹の丘』となりました」

 田道間守命はどんな方だったのでしょう。
「但馬の国、今の兵庫県の知事のような役職に就いていた方で、新羅国天日槍(あめのひぼこ)の末裔(まつえい)と伝えられています」

  境内にタチバナの木があります。
「樹齢40年ほどで、今はまだ小さな緑色の実ですが、12月ごろから色づきはじめ、3月ごろに最も色づき、5月ごろ自然に落ちます。酸っぱくて食用にはあまり向きませんが、非時香菓の名の通り、いい香りがします」

橘本神社の前は趣のある熊野古道沿い


  神社の前の道は熊野古道で、ここには「熊野九十九王子」のうち三つの王子が合祀(ごうし)されています。
「橘本神社の創建は不明ですが、ここは元々『所坂王子』で、熊野詣が盛んになった1000年ごろには、この場所に社があったようです。所坂王子は九十九王子の確か三十三番ですが、実際には王子は100カ所を越えていたようで、“
九十九”は』それほど多いという意味です。ミカンの神社は全国でもここだけです」


   紀伊国屋文左衛門、伝説の船出
 
紀伊国屋文左衛門頌徳碑
   
  
 橘本神社から西へ10分走って、下津港に出ました。北に突き出ている半島の付け根あたりに、「紀伊国屋文左衛門頌徳碑(しょうとくひ)」があります。ここから嵐を突いて江戸へミカンを運んだといわれているのが紀伊国屋文左衛門。天然の良港で地元の温州ミカンを出荷していた下津港ですが、江戸時代に海が荒れ、航路が途絶えてミカンを江戸に運べなくなった年があり、地元でミカンの値が暴落しました。文左衛門は死を覚悟して下津から江戸へミカンを運び、巨万の富を築いたと伝えられています。