●鐘の鳴る道 その3
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和子・語り「とうとう引っ越しの日になってしまいました。信吉は、ほんまに出ていってしまうんでしょうか」
●店の後片付けをしている定吉と和子
定吉「よしゃ。これで片付けは終わりやな」
和子「ねえ、お父さん。今日、信吉、ほんまに出ていってしまいますよ」
定吉「何や、まだおんのか、あいつ」
和子「荷造りだけして、今、友達んとこにトラック借りに行ってる。ねえ、ちょっとこれ見て。信吉の荷物の中から見つけたんよ」
定吉「『大都市圏の豆腐製造販売業に見る小規模店舗の今後』」
和子「信吉の卒業論文のコピーやて。あの子ね、大阪やら京都やら神戸やらの、豆腐屋さんの経営状況やとか、次の世代の担い手の問題やとかを、細かく調べていったんやて。あの子、豆腐屋なんかに全然興味がのうて、私たちの仕事のことなんかまったく見てへん思うてたけど、ほんまは違うてたんよ。むしろ、私たちの方こそ、あの子のこと、全然見てへんかったんやわ」
定吉「わしはただ、信吉にはやりたいことをやらせたい、そう思うてただけや」
和子「あっ、信吉戻ってきた。ねえ、もう1回、話して」
信吉「ただいま」
定吉「おお、お前、なんや、卒論で豆腐屋を取り上げたらしいな」
信吉「それか。僕とお通夜に一緒に行ったこと、覚えてる?吉野の吉田君とこや。あの辺、道が入り組んでるさかい、僕、家にたどり着くだけで精一杯やってんけど、お父ちゃん、ほんまにすいすい歩いて行ったやろ。しかも、近所の人らがみんな、豆腐屋さん、豆腐屋さんて、次から次へと声かけてきてな」
定吉「あの辺の道は、40年、毎日、自転車で走ってる。わしの庭みたいなもんや」
信吉「お父ちゃんは、近所の人らのこと、みんな知ってて、しかも、えらい親し気にしてた。それを見て思うたんや、ちょっとカッコええなて。けど、それも、心を込めて作った豆腐があってこそ、初めて成立するコミュニケーションなんやなて。それで、街の小さな豆腐屋の存在に興味持ち始めたんや」
定吉「ふん」
信吉「僕な、ノンバンク入って、ベンチャー企業なんかに投資する仕事してきたけど、将来有望やなと思たんは、こつこつと物作りしてる会社ばっかりやってん。物作りを忘れたらあかんて、つくづく思うたわ」
定吉「…おお、信吉。近ごろ健康食ブームとかで、豆腐の売れ行きがええねん。けど、わしは年や、もうこれ以上ぎょうさんはよう作らん。ちょっと手が足りひんねん。下働きでよかったら、あしたから来い」
信吉「お父ちゃん…」
定吉「ただし、うちで働くもんは、みな住み込みやで」
信吉「うん、分かった。ありがとう」
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