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  舟運(しゅううん)が生んだ、「遊女の里」。 
 
寂光寺(江口の君堂)
 城北わんどから3〜4km上流の淀川北側、神崎川との分岐点の近くにあるのが、「江口の君堂」として知られている寂光寺です。「江」は川のことなので、江口は“河口”の意。海まで距離があるのに、なぜでしょうか。東淀川区役所区民企画室の河内(かわち)宏さんに伺いました。
「江口という地名は『難波江口(なにわえのくち)』から来ていて、ここは淀川を上下する川船と瀬戸内海を往来する海船とを乗り換える場所でした。その様子は、菅原道真の歌や紀貫之の土佐日記にも見られます。また、推古天皇16(608)年に隋の使節が来た際、朝廷がここで30隻の船で歓迎した話も残っています」



周辺は江口の里としてにぎわった

 神崎川にも、船が行き来したようです。
「桓武天皇の命を受けた和気清麻呂(わけのきよまろ)が、延暦4(785)年に三国川と淀川を結び付ける運河を開きました。その運河と三国川が今の神崎川です。これにより、瀬戸内海へと出る複数ルートが出来た上、旧ルートでの大阪湾から天満川に出る困難さが解消され、益々船が増えて交通の要衝として繁栄、この辺りがにぎやかな歓楽街となりました。とくに平安後半には、『遊女の里』と呼ばれ、貴族たちの憧れの場となりました。
関白の藤原道長や、息子である関白の頼通(よりみち)なども、ここの遊女に夢中になったことが、歴史的な書物にも書かれています。ただし、誤解されがちなんですけど、小舟で客を引いた遊女と、陸に住まいを構えて歌舞音曲の教養や礼儀作法をわきまえ、皇族、貴族、外国使節の相手などを務めた遊女と、当時は二通りありました」

 
  難所に建てられた、お地蔵さん。
 

逆巻地蔵
 江口の君堂から西に500mほど、東淀川区大桐(だいどう)にある「逆巻(さかまき)地蔵」にやって来ました。高さが2mぐらいある立派なお地蔵様です。
「昔、豊里大橋付近にあった阪巻村の淀川の流れが激しく、船頭たちは、帆を逆に巻かねばひっくり返るので『逆巻の難所』と呼んで恐れていました。何度も船が難破し、犠牲者もたくさん出ましたので、冥福を祈るためにこの地蔵を建てました。明治時代、淀川の改修工事で地蔵が川に沈むことになったため、あるお寺の僧侶が舟で引き取ろうとしました。しかし、この近くにあった観仏寺の住職が、緋(ひ)の衣を着て倒れていた僧侶を助け、背負って観仏寺に着いたところ、その僧侶が地蔵に変わっていたという夢を見たため、地蔵が遠くへは行きたくないと訴えているのだと思い、観仏寺に安置することになりました。移動の時には、難破で犠牲になった人の戒名を書いた80近くもの石が出てきたそうです。なお、今の場所に移されたのは、大正12年だと聞いています」

 

平田の渡し跡
 豊里大橋のところにも、昔の淀川をしのぶようなものがあります。
「淀川の北岸に、『平田(へいた)の渡し』という碑が建ってます。平田の渡しは、延宝4(1676)年ごろから始まり、明治40年には大阪市営となりました。渡し賃は、大人2銭、子供1銭。豊里大橋が完成して294年の歴史に幕を閉じ、淀川最後の渡し船でした。なお、今回は地域史研究者の三善貞司先生の資料を元に話させていただきました」
 


大阪市内にある大自然、淀川の城北わんどなどを楽しみました。イタセンパラがたくさん見られる淀川に、早くなればいいと思いました。