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  街道を兼ねた堤防があった、城下町。    

 
和歌山城
 紀の川の河口の町、和歌山市は、紀の川南側の河口に近いエリアが繁華街で、和歌山城や県庁、市役所などが集中しています。そんな紀の川南側の「紀の川大堰」のすぐ近くで、和歌山市立博物館の主任学芸員、額田雅裕(まさひろ)さんにお話を伺いました。ここ和歌山市では、市街地の北部、つまり紀の川の南側で、安土桃山時代から江戸時代にかけ、街道と堤防が一体化した公共事業が行われてきたそうです。
「JR和歌山駅から北へ1km半ぐらい行ったところに、『松原堤(づつみ)』というのが、今の国道24号のところにありました。それが昔の『大和街道』と言われる、堤と街道を兼ねたようなものでした。造られた時期について、はっきりとは分からないんですが、江戸時代の初めごろには街道となっていたようです。『地蔵の辻』というところから東の『八軒屋』というところまで、約3kmありました」


松原堤のあった「地蔵の辻」

 どうして松原堤と言うのでしょう。
「紀州藩の参勤交代などに使って道で、その両側のところに木陰を作るために松が植えられていたからだと言われています。なお、松原堤のすぐ北側には、もう一つ『八幡堤(はちまんづつみ)』という堤があり、主にそちらで洪水を防ぎました。松原堤の方は、街道をハイウェイみたいに交通をスムーズにするため、ちょっと高くした堤のようなところだったようです」

 松原堤や八幡堤は、平地に土を盛って造ったのでしょうか。
「そうだと思います。現在は形態がほとんど残っていないのですが、米軍や昭和36年に撮影した飛行機からの昔の空中写真には、土を盛った高まりが確実に写ってます。その形跡は、近年まであったんですけれども、今は住宅が建っていて高まりとしては確認できません」

 


嘉家作の家(正面)

 松原堤よりもお城側には、堤防はなかったのでしょうか。
「南側、JR紀勢本線に沿って『古堤(ふるづつみ)』というのがあったということですが、現在、ほとんど平坦になっていて跡は確認できません。出来たのは、徳川の入国以前だろうと考えられます。古堤のところまでが昔の城下町で、そこから城下町を北の方へ拡張し、本町8丁目、9丁目というのを造ったため、堤防をさらに北側の方に造り直したということだと思います」

 2重にした堤防が切れた記録はあるのでしょうか。
「しばしば決壊したようで、江戸時代に少なくても7回決壊したという記録があります。7回中、八幡堤が切れたのは3回です」

 


嘉家作の家(堤防側)

 地蔵の辻から西側には、堤防はなかったんでしょうか。
「これも、ほとんど同じ時期に堤防が造られていて、そこの部分は『柳堤(やなぎづつみ)』とか、『横須賀堤』とか呼ばれていました。徳川頼宣が和歌山へ入国した元和5(1619)年ごろに造られたと考えられています。場所は現在の『嘉家作(かけづくり)』というところから地蔵の辻にかけて、大体1kmぐらいです」

 そちらは、形跡が残っているのでしょうか。
「こちらは、嘉家作の集落がその堤防に半分乗っかるような形で家を造っているため、3mほどの高まりが分かります。堤防側は2階建なんですが、反対側から見ると3階建という構造の建物になっています。しかし、あと2〜3軒しか残っていないでしょうかね。このように、堤防の片方には嘉家作の家が建っていたのですが、反対の北側には柳を植えたため、『柳堤』と呼ばれたようです」

 柳堤も、治水と街道の両方の機能を持っていたのでしょうか。
「ここの部分は、直接、紀の川に面するようなところですので、かなり頑丈に造られている堤防としての機能と、ちょうど城下町の出口のところに当たるため、上を大和街道としている交通上、非常に重要な場所としての機能を持っていました」

 


「水攻め堤」

 この他にも、水に関連した遺跡などがあるようです。
「戦国時代末期、天正13(1585)年に羽柴秀吉が紀州攻めを行なった時、太田城が水攻めになりました。その水攻めの堤が、約45mの長さしかないんですが残っています。場所は、昔の紀の川が流れていたところで、今は大門川という川があるJR和歌山駅から1kmほど東にあたるところです。太閤記などでは、太田城の周囲、約5kmに堤を5日間で築いて、そこに紀の川から水をせき入れたとされています。しかし、そんな短期間に大規模な水攻め堤を造ることは困難だと思いますし、備中高松城の水攻めの例を見ても、自然の地形をうまく利用して水攻めを行なっていますので、ここではおそらく大門川をせき止めて水攻めにしするため、数百mぐらいの小規模な堤を築いたのが、せいぜいではなかったかと推定しています」


和歌山県の紀の川に来て、用水路や堤防についての歴史的なお話を伺うなかで、何にもない頃の昔の人々がいかにして川とうまくつき合ってきたかを垣間見ることができました。