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  水に守られ、水に悩まされてきた城。   <北川の地図はこちら>

 
北川
 遠敷川を下り、その本流である北川の河口近くに来ました。小浜神社境内の一画にあり、今も石垣が残る小浜城跡は、北に北川、南に南川が流れ、それが東の方で距離を縮めているため二つの川にふさがれているかのようです。そして、西には海。四方が水に囲まれたこの小浜城について、小浜市役所世界遺産推進室の下仲(したなか)隆浩さんにお話を伺いました。
「戦国時代には戦いに適うような山城が造られましたが、小高い山や平地の方に移り、最後には平城(ひらじろ)と言う大阪城のような構造になりました。小浜城も平城ですが、四方を水に囲まれた日本屈指の『水城(みずじろ)』でもあります。現在、小浜神社の建っている所が本丸で、周りには塀ややぐらなどの建物跡があり、一部がコの字型に残っている石垣の南西の角にあるひときわ大きい石垣は天守台。江戸時代には3層の木造天守が建っていました」


小浜城・天守閣跡

 水で守れた反面、苦労もあったようです。
「南川、北川は、若狭地方でも一番大きな河川で、この河口部分には非常にたくさんの水が集まってくることから、洪水等がとても起こりやすい場所で、何度も何度も被害に遭い、修理するという歴史を繰り返しております」

 北川、南川の名前は、小浜城と関係があるのでしょうか。
「江戸時代の資料には、北川を丹後川や熊川、南川を名田庄川や湯川というような名前で呼ばれていたなか、当時の町人や武士が、小浜城の北側に流れている川、南側に流れている川ということで、北川、南川と呼び始めたのが名前の由来だとあります」


 


「順造館」の門(若狭高校正門)

 小浜城は誰が建てたのでしょう。
「1600年に京極高次が若狭一国の藩主になり、築城が開始されましたが、河口のために地盤が悪く、水もたくさん集まる場所だったためなかなか作業が進みませんでした。その後、江戸幕府の大老、酒井忠勝が国替えで小浜藩主になると、ようやく作業が進み始め、築城から約40年後にようやく完成しました。今、小浜神社のある本丸部分は、お城の中心部分で、この周りに内堀があり、周辺には西の丸、二の丸、三の丸、北の丸といったいろいろな施設がありました。その施設の中には、米蔵や、殿様や奥様方が住まわれる一般の生活スペース、さらには海に面していますので『遠見やぐら』という船や海から来る敵を遠見する場所などが設置されていました。ただし、現在は住宅地になり、その面影は全く残していません」

 いつごろなくなったのでしょう。
「明治に入り火災が起き、そのほとんどが焼失しました。唯一残った天守閣も、一般の民家に売り払われ、解体されて、明治8年にはこのような姿になって小浜神社が創建されました。なお、小浜城の近くにあった小浜の藩校『順造館』は、門が現在も残っており、県立若狭高等学校の正門として移築されています。小浜は杉田玄白はじめ非常に多くの偉人を輩出した町で、それを誇りにして勉学に励んでいただきたいというわけです」

天守台

  再建の動きはないのでしょうか。
「約5年前に現在の市長になってから、そのような機運が高まっています。また、約2年前には『小浜城復元市民の会』も作られました。小浜城の天守は、江戸幕府の大工頭である中井正純が造っていますが、その設計図が残っていて、それをもとにさまざまな資料を検証しながら、当時と全く同じような天守を復元したいなと考えています。文化財を生かした町づくりをしている小浜市の、一つのシンボルになるような天守閣ができればいいかなと思っています。

 下仲さんの所属は「世界遺産推進室」です。

「文化財保護全般の仕事をしていますが、小浜に古いお寺がたくさん残っていて、国宝や重要文化財のお寺が、このような狭いところに密集しているのは、日本全国でもほとんどないと言われております。これらの歴史資産を生かし守りながら、世界遺産を目指していこうという取り組みを行っています。海に開かれ、中国や朝鮮とのつながりも深い町ですから、『仏教伝播と神仏習合』をテーマに世界遺産を目指しています」


福井県小浜市を流れる北川と、その支流の遠敷川を訪ねました。水と歴史と心の話、実に胸に響き、いろいろと勉強になりました。