ホーム パーソナリティ紹介 これまでの放送-放送日から検索 これまでの放送-地図から検索 番組あてメール ラジオ大阪

この町を描く、水にまつわるさまざまな歴史。
大阪府島本町に来ました。島本町、枚方市、京都府大山崎町、八幡市が接するあたりで、桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川になり、島本町では北東から南西方向へと流れています。その淀川に注いでいる水無瀬川は、町の北西部にある釈迦岳が源の10km足らずの川。名水で知られるここ島本町は、なぜ「水無瀬」と呼ばれるのでしょうか。



   水無瀬の水の歴史。     <水無瀬の地図はこちら>
 

伏見人形


 阪急水無瀬駅から北へ徒歩10分、「伏偶舎(ふくぐうしゃ)郷土玩具資料館」は人形の館で、土人形や張子人形、お面などが公開されています。水無瀬の水の歴史にも詳しい、館長の奥村寛純さんに伺いました。
「伏偶舎の展示のメインは伏見人形で、ここには人形芸術の伝統品が集結しております。1階は伏見人形が主体、2階は全国の人形。1階と2階で8千点もないかな。ここに入り切らんのは3階に、3万点ほどあります」



各地の人形やお面も展示

 水無瀬が日本の表玄関だった時代があるとのこと。
「平安時代です。都の役人や遣唐使が外国へ出る場合、ここまで陸路で来て、船で難波津へ出て、それから西国へ行きました。ここはいわば水のたまり場で、三川の水が流れ込んできます。奈良時代天平勝宝年間に、東大寺村(現・島本町東大寺)が奈良の東大寺に荘園として施入(奉納)されました。都の建設用の木材を、いったんここに集積するためです。貯木所ですな。それほど水が多かったんですが、洪水も多い。三川合流点も昔は宇治のあたりでしたが、水量が多く、洪水のたびに合流点が変わっていきました。秀吉は明の使節との接見の時、大阪城だけじゃなく伏見城も見せたかったので、巨椋池から宇治川を切り離し、巨大な沼地を造った。しかし、水が停滞して悪水と蚊に悩まされたので、昭和になってから干拓され、今は池の名残りはありません」



水無瀬川

 水無瀬には淀川の渡しが三つあったそうです。
「JR山崎駅の前あたりの山崎の渡し、大阪府営江川住宅のところにある広瀬(水無瀬)の渡し、そして、高浜(楠葉)の渡しです。三つとも古く律令の時分からありました。山崎には中世のころ、油座の総元締めがあり、向かいの石清水八幡宮へ油を納め、また全国の油の製造販売権を一手に握っていました。山崎の渡しが一番長く、昭和37年4月1日に最終の渡し舟を出しています。高浜の渡しと広瀬の渡しは、大正12〜13年ごろまであって、利用する時は船頭さんと、『向こうまで運んでんか』『よっしゃー』ちゅうやりとりをしました。広瀬の渡しは今昔物語にも出てきます」

 淀川周辺の昔と今の違いはどうなのでしょう。
「昔は夏になると『夜ぶり』というて、アシ原でコイが寝とるのを手でつかんだり、ヤスで突いたり。今はそんなことする人も場所もないしね。ここから下は家など何もなくて、掘っ建て小屋のような阪急の水無瀬駅がぽつんとあっただけです」

 



  伏偶舎郷土玩具資料館
 ■見学料/無料
 ■資料代/300円
 ■休館日/不定休*要電話予約
 ■TEL/075-961-0622