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揖保川と因幡街道の十字路に栄えた、新宮町。
兵庫県新宮町に来ました。町を揖保川が流れています。揖保川というと龍野市のしょうゆやそうめんが有名ですが、新宮町はその龍野市の北隣の町。揖保川に培われた豊かな自然と歴史を持ち、内陸なのにかつては交通の要衝だったそうです。それは、どうしてなんでしょうか。



   帰りは両岸から舟を引く。   <揖保川の地図はこちら>
 

揖保川

 まずは、揖保川と新宮町の歴史について、新宮町教育委員会文化財担当の義則敏彦さんに伺いました。新宮が昔から交通の要衝だった理由から。
「町の南北に揖保川が流れ、東西に姫路と鳥取をつなぐ因幡(いなば)街道が走り、その二つが交差する場所として、高瀬舟の舟運(しゅううん)を中心に交通がにぎわいました。舟運は中世に始まり江戸時代に盛んになったようで、最盛期には120〜130艘(そう)の舟が、新宮町の北の山崎町にある出石(いだいし)浜を起点に、河口の網干まで28kmを上り下りしました。網干港からは千石船などに荷を積み替えて大阪あたりまで運んでいたようです。新宮では、新宮浜や宿場町の觜崎(はっさき)村で荷が積み降ろしされていました。しかし、昭和9年ごろに国鉄姫新線が開通し、高瀬舟は衰退していきました」



揖保川を行き交った高瀬舟

 どんな舟だったのでしょう。
「全長10m、幅1.5mほどの舟で、帆がかけられ、櫓(ろ)や櫂(かい)も付いていたようです。通常3人で運行され、年貢米や薪、炭などを運び、帰路は塩やしょうゆ、上方のぜいたく品や日用雑貨などを運んでいました。上りは船頭が綱で引っ張り上げていたようです。2人が両岸から引っ張り、1人がへさきに乗って進路を決めていました。5〜6年前、高瀬舟の面白い資料が見つかったんですが、新宮町香山の大歳神社の板壁に、高瀬舟の絵が非常に多く描かれていました。船頭の落書きです。隣村の上笹にある北山神社でも同様のものが見つかっています。また、やはり高瀬舟が盛んだった山崎町の岩田神社でも見つかり、合計3カ所で板絵が見つかっています。帆が描かれたものや舟を引っ張り上げている絵もあり、貴重な資料です。



義則敏彦さん

 何かエピソードはないんでしょうか。
「高瀬舟は農閑期の農家が賃稼ぎに運行していましたが、揖保川から田んぼに水を入れている時にどうしても荷を運ばなければならないこともあり、井堰を崩して通過したため、地元の村と船頭がもめたようです。また、いかだ流しも盛んで、洪水の時に流したいかだが橋げたに巻きついて取れなくなり、大騒ぎになったこともあったようです」
 新宮町には、もう一つ舟があったそうです。
「江戸時代、揖保川にはあまり橋がなく、各所に渡し舟があったんです。最後まで残ったのが東山公園橋あたりです。江戸時代の絵図に渡し舟が登場しているので、そのころからあったのは間違いありません。昭和38年に揖保川東岸に国民宿舎『志んぐ荘』が完成した時は渡し舟で往来していましたが、昭和43年に東山公園橋というつり橋が架かり、渡し舟は役割を終えました。ただ、『揖保川まつり』で復活させたことは何回かあります」



取材日は台風直後で揖保川は大変な濁流状態

 揖保川は新宮の人にとってどんな存在なんでしょう。
「農家には貴重な水源であり、高瀬舟による物流の中心でもありました。井戸兵庫県知事が新宮町出身で、子供のころ新宮町に住んでいたそうで、一番記憶に残っているのが揖保川で遊んだことだそうです。揖保川は古里を象徴する存在なんでしょう」