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新四国八十八カ所と農産物直販で、注目の地。
パラグライダーが飛んでいる。晴天で気持ちよさそう。ここは和歌山県那賀郡打田町、紀の川が流れている。紀の川は日本最多雨地域の一つの大台ケ原を源に、西へ流れる一級河川だ。奈良県五条市から和歌山県橋本市、那賀郡、和歌山市へと流れ、和歌山県下の流域は5市、17町、5村に及ぶ。打田町は紀の川の東西の中心地点より西(和歌山市)寄りで、川をはさんで南北に広がる。北部は自然に恵まれ、神通温泉に月間3000人が訪れる観光地。一方、南部は紀の川を利用したスポーツ、パラグライダー、カヌー、アユ釣りなどが楽しめる。川の南にある「最初ヵ峰(さいしょがみね)、通称「百合山」は、今、観光スポットとして大変に注目されている。



  紀の川が町の中心。     <紀の川の地図はこちら>
 

紀の川にかかる竹房橋

 紀の川に架かる竹房橋を南に渡る。北側は河川敷が非常に広いので、実際に水が流れているかわはばが実感できないが、南側の流れのそばに立つとその大きさが感じられる。川幅は100mほどあるだろうか。本当にゆったりと、大きな川だ。
 百合山には「百合山新四国八十八カ所」があるが、ここが起点だ。「百合山の自然と遺跡を生かす会」会長、大井一成(かずしげ)さんに伺った。
「四国八十八カ所は弘法大師信仰で全国から信者を集めましたが、江戸時代末ごろ、全部回ると50〜60日かかったそうで、費用も時間もかかりました。そのため全国各地に“ミニ四国八十八カ所”が造られました。百合山のもその一つです」



弘法大師像

  弘法大師の像がある。
「平成5年の建立です。県道そばの阿字岩という弘法大師ゆかりの伝説の地を中心に、新四国八十八カ所が造られました。弘法大師が諸国遍歴の帰途、大きな岩に梵字の阿字が現れたのを見て、この里に自分の法をまた起こしてくれる人が現れると予言したんです。予言通り、200年ほど後、高野山を復興した明算上人が出ました」

 JR打田駅から起点までは40分。起点から15分ほどで2番目のお堂に着く。標高100m、町が見渡せる。ゆったりした川の流れと鳥の声。
 八十八カ所巡りはいつ出来たんだろう。
「江戸時代末の安政4(1857)年です。出来て11年目に明治新政府の神仏分離令が出て、仏が軽んじられる風潮になり、日清・日露戦争で廃れました。大正末に復興気運が高まり、昭和4年に一度復興された時は臨時列車が運行され、約20万の人出で打田駅から数珠つなぎになったという記録があります。ところが、昭和16年からの太平洋戦争でまた衰え、戦後は荒れ放題でした。昭和50年後半からもう一度復興の話が出て、昭和58、59年ごろに有志2、3人で山に入りました。遍路道は歩ける状態じゃありませんでしたが、昭和の復興時に造った祠や仏を探したところ大体が残っていましたので、『百合山の自然と遺跡を生かす会』を結成して復興することにしました。



紀の川の雄大な眺め

 大井さんは発起人の一人だ。最近ではイベントしているようだ。
「新四国八十八カ所を知ってもらうため、4月に『百合山新四国花まつり』を、秋は『百合山ウォークラリー』を開催しています」

 標高285mの百合山頂上近くにある、最初ヵ峰展望所に来た。紀の川が小さく見えるが、むしろ紀の川の“大きさ”が分かりやすい。

 この山は昔の書物にも名が出て来るそうだ。
「室町時代の軍記『太平記』に南北朝時代の動乱のことが詳しく書かれ、最初ヵ峰も出て来ます。この辺りでも南朝と北朝に分かれて戦いが繰り広げられ、この頂上も古戦場で、打田町は文化財にしています。展望所の整備は25年ほど前で、文化財指定の時、頂上の一部を一反ほど買い上げて桜を植えています。当時はまだぐるりに私有地がありましたが、新四国復興後に全体を買い上げてもらいました」

 大井さんにとって、紀の川はどんな存在だろう。
「昔から交通に使われ、またこの辺りは周辺でも一番平野が広い穀倉地帯で、紀の川の水を取り入れて水田を作っていました。母なる川という感じですね」