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  旧街道が交わる交通の要衝    
 


旧北条街道

 もちむぎのやかたの裏手に出ると旧北条街道が走っていて、少し西へ歩くと木造洋風二階建て、薄緑の壁に赤銅色の屋根の古い建物がありました。郵便局だったようで、たくさんの人の往来があったことを想像させます。さらに行くと「柳田國男生誕の地」と書いた石碑が建っていて、有名な民俗学者、柳田(やなぎた)國男の生家があった場所であることを示しています。さらに西には、生野銀山で取れた銀を姫路の飾磨(しかま)港へと運んだ旧生野街道との十字路があり、ここ辻川地区は、昔から交通の要衝で、宿場町でもあったようです。

 



  民俗学への道     
 

歴史民俗資料館

 木立に囲まれ、移築された柳田國男生家と記念館、福崎町立神崎郡歴史民俗資料館が並んでいます。木の床が気持ちいい歴史民俗資料館を訪れ、村上由希子さんにお話を伺いました。この歴史民俗資料館は、レトロでおしゃれな建物です。
「資料館の展示物として、まずはこの建物をじっくり見ていただければと思っております。木造二階建てでギリシャ建築様式を取り入れた洋館は、柱の造りや装飾品など、細やかな美で楽しませてくれています。館内には、当地方で実際に使われていた生活用具や農具などの民俗資料を多く展示しております」


柳田國男の生家
 柳田國男の民俗学の原点は、この地にあったようです。
「明治8年7月31日に、兵庫県神東郡田原村辻川に六男として生まれ、11歳ごろまで過ごしました。最初は文学青年として森鴎外さんなどと交流しましたが、その後は民俗学を志しました。その原点の一つには、生まれ育った家が挙げられます。日本民家の原初形態と言われる『田』の字形をした家で、著書に『私の家は日本一小さい家だ。この家の小ささという運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよい』と記されています。また、二つの街道が交差する辻川にいて、さまざまな人たちが行き交い、物や文化が運ばれるなか、新しい様式を取り入れて変化していくスピードの早さを目にしたことも、大きかったのではないかと思います」

 福崎町立神崎郡歴史民俗資料館

■開館時間/9:00〜16:30
■休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)、
   祝日の翌日(土日の場合は開館)、年末年始
■入館料/無料
■TEL /0790−22−5699

  福崎町が豊かな理由     
 

福崎工業団地

 福崎インターから15分ほど西に走ると、福崎町内を見渡せる高台に福崎工業団地が広がっています。福崎は現代も交通の要衝、多くの工場が集まっています。福崎工業団地協議会事務局長の原田正一(しょういち)さんにお話を伺いました。
「ここの面積は13万5000uぐらい、甲子園球場が90ほど入る広さです。約30社の工場が操業し、従業員数は約3500人です。昭和35年、当時の大野鶴市町長が基幹産業を持ってこようと、子会社が福崎で鶏舎をしていた丸紅さんに、西治(さいじ)、高橋、西谷の3地区を使って工業団地を造ってくれるよう要請したのが始まりです」


中国道の開通が追い風になった

 この工業団地の特徴を伺いました。「一つは、それまでの主流だった行政主導ではなく、民間に委託したこと。もう一つは、立地条件が非常に良かったことです。具体的には、昭和40年に中国自動車道が出来て大阪と1時間ちょっとでつながり、インターにも近いこと。市川を利用して安く工業用水が使えること。隣の香寺町(こうでらちょう)(現・姫路市)がベッドタウン化されて人の確保ができることです。福崎町は、台風などの天災が少なく、おいしい播州米が取れる非常に裕福な町でもあります」


兵庫県福崎町の“秘密”を探るドライブを楽しみました。通過するだけではもったいない町だと分かり、柳田國男の足跡をゆっくり巡ってみたくなりました。