交通の要衝、三木の金物の秘密をたどる 今回は緑のイメージがある兵庫県三木市へとドライブします。この町で有名なのは、酒米の山田錦と金物。とくに金物は、三木市の工業生産額の30%以上を占め、すぐれた品質を誇る金物のブランドとして、その名をとどろかせています。この町の金物づくりは、戦国武将たちによる国取り物語と関係があるようです。また、戦国武将が残したもう一つの遺産「湯の山街道」には、今も古い家並みが残っているようです。 |
昔も今も交通の要衝 <山陽自動車道の地図はこちら> | |
これまでの取材を通じ、現在、交通の要衝であるところは、昔もそうだったことが多いことを知りました。いくつもの街道が集まっていたり、宿場町があったり、そんなところって今も高速道路ネットワークの拠点になっているようです。三木の金物を有名にしたのも、こうした交通事情の賜物なのかも知れません。 |
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三木で交わる数々の街道 | |
「ここは姫路道の方へ通じる『姫路街道』です。他にも『湯の山街道』、『明石街道』、『東条街道』、『西国街道』などがあり、三木はいろいろな街道や宿場町で栄えてきました。そのうち湯の山街道は、『三木合戦』での傷兵たちを羽柴秀吉が有馬温泉に運んで湯治させた道です。物資や傷兵を運んだりするため、昔は『山田道』という小さな道を、奇麗に盛り土をして雨でも両側へ水が流れ、槍を横にして通っても邪魔にならないぐらいの幅の街道にしました」 |
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「これは、三木で一番古い金物の卸問屋さんの黒田清右衛門商店です。創業240年、9代目だそうです。今もずっとお仕事をされていて、昔のままに残されておりますが、右側の事務所の中は、最新機器を入れたすばらしい事務所です」 |
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兵糧攻めの「三木合戦」跡 | |
「そうです。秀吉は、まずは周りの支城を攻め、だんだん包囲網を狭めて、22ヶ月で三木城を落としました。その間、参謀の竹中半兵衛の奇策である兵糧攻めをしたんですね。別所長治公は、それぐらいのろう城はできると覚悟してたんですけれど、支城が落ち、そこの人たちが三木城に逃れて最後には7500人になったため、食べるものがなくなりました。一説では、壁土を水で溶き、中のわらを食べたり、ネズミやヘビを食べたりしていたそうです。結局、戦う意欲を兵士たちがなくしました。秀吉は付城をたくさん持ち、食料が運び込まれないよう、そこで見張りました」 |
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