謙虚な豪商、日野商人 | ||
「ここは近江日野商人の本宅を資料館にしたものです。日野商人の家は、高い板塀のある表は質素ですが、中へ入ると素晴らしいお庭があるという感じですね。ここは昭和11年に出来た建物ですが、いい材料をいっぱい使っています。5間(けん)ぐらいある座敷の廊下は1本の松で出来ていますし、床柱は杉の四方柾(しほうまさ)、床の前はケヤキの一枚板で、シンプルで上品な建て方をしています。派手さを出さない謙虚さが、日野商人らしい建て方ですね」 |
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「日野は蒲生定秀公が造った城下町で、いろんな職人さんなどを集めました。その子の氏郷(うじさと)公のころ、楽市楽座など自由商業都市として日野6万石は大変に栄えていましたが、秀吉の命令で氏郷公が日野6万石から松坂へ、さらに会津へと転封したため、ちょっと衰退しました。しかし、商人たちはなんとか自活の道を開こうと行商を始め、日野で出来た日野わんや、後には薬の『万病感応丸』などを天秤棒で担いで売りました」 お金持ちになるための心得のようなものがあります。 「江戸時代に日本の長者番付に載った有名な日野商人の一人、中井源左衛門が子孫に書き記した『金持商人一枚起請文(きしょうもん)』です。『法然商人一枚起請文』にならって『もろもろの人々沙汰し申さるるは…」から始まるのですが、『金持ちにならんと思はば、酒宴遊興奢(おご)りを禁じ、長寿を心掛、始末第一に商売に励む』などと書かれています。しかし、『始末と吝(しわ)きの違いあり』、つまり始末は大事だがケチはだめですよとも書いていて、もうけさせてくれた皆さんに還元するため、社会奉仕もたくさんしています」 |
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「中井源左衛門は、大津〜山科間の道を通った時、雨が降るとぬかるみにはまって牛車で荷物を運ぶのに困ったため、『逢坂山の車石』という切り石をずっと敷きました。また、その子、正治右衛門は、文化12年に3千両かけて『瀬田の唐橋』を付け替えましたが、その時の擬宝珠(ぎぼし)も展示しています。さらに、草津宿の常夜灯も建てたのですが、それだけじゃなく、永代油料も寄付しました」 |
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道は伸びゆく滋賀県の象徴 | ||
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近江商人が成功した理由の一つに、近江が交通の要衝だったことがあるのではないでしょうか。近江路を走ると、昔も今も、道というのは大切なところにはどんどん出来ていくものだと実感します。 |
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