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東と西、聖徳太子ゆかりの町をドライブ
旧暦2月22日は聖徳太子の命日。水墨画のようにかすむ二上山を見ながら、南阪奈道路でまず目指しているのは大阪府太子町です。今月は太子ゆかりの多くのお寺で法要などが営まれますが、今回は、この後、高速道路網を駆使して西の太子町へも足を伸ばし、太子が残した足跡をたどるドライブを楽しみます。



   聖徳太子の墓を守る寺     <叡福寺の地図はこちら>
 

太子御廟の入り口

 南阪奈道路の羽曳野東インターから5分、太子町太子にある叡福寺に来ました。近くには日本で最初の官道「大道(だいどう)」が元になった竹内街道が通っています。叡福寺は、正面の立派な階段が上がり、朱塗りの門をくぐると左側に塔とお堂があり、正面の奥に山があります。その山を上がっていくような三重屋根の建物もあります。ご住職の近藤本龍(ほんりゅう)さんにお伺いしました。
「こちらが聖徳太子様の御廟、すなわちお墓でございます。考古学的には叡福寺北古墳といい、その南側に、お墓をお守りするため叡福寺が建てられております。太子は622年にお亡くなりになりましたが、その時に推古天皇により御廟をお守りする人々が住むための家が建てられ、さらに約100年後、聖武天皇により御廟前に七堂伽藍が建立されたのが、このお寺の始まりとされております」

 
聖霊殿 国の重要文化財
 その後はどうなっていったのでしょう。
「太子信仰の高まりとともに寺域が広がり、室町時代には、この太子御廟前の叡福寺を西の伽藍(がらん)、竹内街道沿いの転法輪寺を東の伽藍とする大寺院へと発展しました。しかし、室町時代末、織田信長によって全山が焼き払われ、1603年に豊臣秀頼公により聖徳太子様をお祭りする『聖霊(しょうりょう)殿』が再建され、江戸時代には叡福寺の伽藍が整備されましたが、転法輪寺は再建ならずに終わりました」

 太子自身がこの地を自らの墓に選んだ伝説があるようです。
「推古8(600)年、太子27歳の時、太子が黒駒(くろこま)という駿馬に乗って諸国を行脚された際、富士山に登られました。山頂に至り、諸国を見回したところ、五色の光が雲の間から漏れ出ていて、その方向に降り立ってみると、この磯長 (しなが)の地へたどり着いた。太子は、ここが比類のない霊地であるということを悟られ、自分の眠る場所を決められたということです」

 
多宝塔 国の重要文化財
 法要はいつ行われるのでしょうか。
「毎月11日を太子のご縁日ととらえ、ご法要をさせていただいております。とくに、4月11日は最も盛大に太子の徳を讃える法要を行っています。大正末までは2月22日に行っていたのですが、聖徳太子1300年の遠忌を契機に、4月11日となり、その後は11日を縁日としております。なお、2月22日には、ここ数年、太子とご縁のある場所を訪ねながら法隆寺から叡福寺まで歩く『太子道を訪ねる集い』が行われています。約16kmの道中には、太子がお座りになった所に屏風を立てたと言われる屏風岩や、達磨(だるま)寺があります」

   磯長山叡福寺
■参拝/終日、自由
■寺宝館/9:00〜17:00 、
       月休(祝日は開館)、12月第1月曜〜2月休
       大人200 円、小学生100 円
■TEL /0721−98−0019

   湾岸線がつながる日    <湾岸線の地図はこちら>
 

阪神高速湾岸線
 大阪府太子町を出て、姫路市の西隣、兵庫県太子町へと走っています。南阪奈道路から阪和自動車道を和歌山方面に入り、少し西へ行って堺ジャンクションから堺泉北道路へ。さらに西へ行き、助松ジャンクションから阪神高速湾岸線で神戸方面に向かい、住吉浜の乗り継ぎ所まで来ました。ここまではあっという間でしたが、問題はこれからです。湾岸線が六甲アイランドで終わっていて、神戸市垂水区の名谷ジャンクションまでの約21kmは湾岸線がありません。道路を造るのに必要な都市計画決定は、6.4kmの区間で出来ていて、残りの区間についても、3年余り前から市民参加型のPI(パブリック・インボルブメント)方式で検討が行われ、2年前から手続きが行われています。つながる日が待ち遠しい限りです。