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   そのまま残る地震のつめ跡           
 

野島断層保存館
 あわじ花さじきから7分ほど、海の近くに大きな風力発電の風車が回っています。「北淡震災記念公園」には芝生広場が広がり、「野島断層保存館」や断層の上に建つ民家などが並んでいます。北淡震災記念公園の池本啓二さんにお伺いしました。まずは野島断層について。
「全体は約10kmあり、保存館で約140m、隣のメモリアルハウスも入れて約185m保存しております。兵庫県南部地震は震源が明石海峡で、まず野島断層が約10km動き、続いて神戸の方で約30数km断層が動いて地震が起きました」


メモリアルハウス
 断層上のあぜ道や道路の側溝がそのまま残り、メモリアルハウスは被災された家がそのまま展示されています。
「道路やあぜ道、生け垣などがずれた様子を見ることができます。メモリアルハウスは、地震で家全体が上に持ち上がって、横にもずれています。これだけの断層保存は、世界でもあまり例がないですね」

 淡路島では家にお金をかけると聞いたことがあります。
「農家が多いので土地があるうえ、隣の家より大きくという見栄っ張りなとこがあります。結局、阪神間の人は地震が起きると思っていなかった。とくに淡路の人は、何年かに一度来る台風にだけ備え、屋根を重くし、基礎が甘かったということですね」

 3月には福岡県西方沖地震がありました。
「九州は歴史的にほとんど大地震がなかった地域です。しかし、九州から見学に来るお客さんには、地震は過去に起きてないが活断層があるので起きる可能性はあるとご説明していたんですが」



   北淡震災記念公園
  「野島断層保存館」「メモリアルハウス」

  ■開館時間/9:00〜17:00
  ■入館料/大人500 円、
     中高校生300 円、小学生250 円
  ■休館日/年末
  ■TEL/0799-82-3020
  




   「淡路廃帝」の悲劇
 
淳仁天皇陵
 神戸淡路鳴門自動車道で一気に南へ。西淡三原インターを降りて、今年1月に4町が合併して生まれた南あわじ市に来ました。畑が広がるなか、こんもりと茂る森があります。「淳仁天皇陵」です。 第四十七代淳仁天皇の別名は「淡路廃帝」。廃帝とは他から強制されて位を退いた天皇ですが、一体、何があったのでしょうか。郷土史研究家の菊川兼男さんにお伺いしました。
「淳仁天皇は天武天皇の孫グループのうちの1人です。女帝の持統天皇との間の血筋が途絶えたために、孫の中から最初は道祖(ふなど)王の世継ぎが決まっていました。それを藤原仲麻呂が追放して、自分の可愛がっていた大炊(おおい)王を皇太子にし、女帝・孝謙天皇の後を継がせて淳仁天皇にしました」

 何が原因で廃帝となったのでしょう。
「『藤原仲麻呂の乱』の仲間だとされ、孝謙上皇によって『淡路国公(きみ)』へと位を下げられて淡路国へ流されました。聖武天皇の皇后だった光明皇太后の力で出世した仲麻呂は、光明皇太后が亡くなると勢いを失い、孝謙天皇の下で台頭してきた道鏡禅師に権力を奪われそうだったので反乱を起こしたわけです。淳仁天皇は仲麻呂の娘婿でしたから、陰謀に関係なくても排除されますね」  



淳仁天皇陵
 淡路島ではどんなお暮らしをされていたのでしょう。
「やはり監視が付いて不自由でした。暮らし向きはまあまあでしたが、いろいろ都の噂も聞こえてくるでしょうし、嫌であったでしょうね。三原町の市十一ヶ所(いちじゅういっかしょ)という辺りにおられて、外港へ向かって逃げようとされたのか、途中で捕らえられて翌日亡くなりました。死因は不明で自殺説もあります。わずか2年間しかおられませんでしたが、いまだに伝説がこの土地に深く入り込んでいて、私の家は奈良の都から淳仁天皇のお供をしてきた家だとか、私の先祖が雨具を貸したとか、いろんな話があります」

 なぜ淡路島に流されたのでしょうか。
「淡路と大和朝廷は非常に深い関係にありますね。淡路は国生みの伝説の島だし、古代の天皇がみんなここへ狩りに来た。また、淡路は宮廷に生鮮食料品を差し上げる御食国(みけつくに)。元天皇だった方を置くのにはええとこだと思いませんか」
 

淡路島は奥が深い、そして、春が最高です。これは実感として、胸に刻み込まれました。皆さんも、春の淡路島でお花を満喫してみてください。