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険しい石榑(いしぐれ)峠を越える近江商人の道をドライブ
峠越えの涼しいドライブを楽しむため、名神高速道路で近江の国へ。八日市インターを降りて、国道421号に入りました。この道は「八風(はっぷう)街道」と呼ばれ、昔、近江商人が伊勢や東国へ行くのに使った道です。今回の近畿道ものがたりは、最終的に三重県にまで足を延ばす予定ですが、まずは滋賀県内の旧永源寺町(現東近江市)に向かいます。


  国道421号「八風街道」    <国道421号の地図はこちら
 

国道421号「八風街道」
 今年2月、八日市市、永源寺町、五個荘町、愛東町、湖東町が合併して、東近江市となりました。面積で、滋賀県のおよそ8%を占める、大きな都市の誕生です。八風街道を走り、旧永源寺町に入ると、 最初は田んぼが両側に広がっていたんですが、段々と山を上がる道になりました。紅葉の名所である永源寺を過ぎ、永源寺ダムも過ぎると、さらに山の中を上がってきました。そして、国道421 号を北へそれ、愛知川からも離れ、県道34号を奥へ奥へと入ってきますと、蛭谷(ひるたに)町に到着しました。

  木地師発祥の山里
 

「木地師の古里」蛭谷町

 蛭谷町の筒井神社にある「木地師資料館」に来ました。旧永源寺町は「木地師の古里」と言われていますが、木地屋とも轆轤(ろくろ)師とも呼ばれる木地師について、この資料館の管理をされている小椋正美(おぐらまさみ)さんに伺いました。
「木地師は、トチやケヤキ、クルミやサクラといった良材の原木を轆轤に固定して回し、刃物で削って丸くするのが仕事です。まず山で木を切り、原木のままで型を取り、それを粗削りして乾燥させます。完全に乾いたら、削ってお碗などに仕上げます」


木地師資料館
 いつごろ木地師は発祥したのでしょうか。
「平安時代、文徳(もんとく)天皇の第1皇子の惟喬(これたか)親王が、腹違いの惟仁(これひと)親王との皇位継承に敗れ、山へ山へと逃げ込まれて、最終的にこの筒井に落ち着かれましたが、落ちているドングリの実が笠をかぶっているのを見て、『こういう物を作れば役に立つだろう』と思われました。そして、法華経を信仰されていた親王は、ある時、巻物をぐるぐると回した際に軸が舞ったのにヒントを得られ、轆轤を考案されました」

  ここ蛭谷と少し北の君ケ畑とで、木地師の2大グループが出来たようです。
「木地師が増えて木が減ったため、みんな小グループを組みながら全国へと分散していきました。蛭谷も君ケ畑も同じような系統でしたが、蛭谷の吉田家と君ケ畑の白川家という神社の関係で両派に分かれていました。分散した木地師は、そのどちらかの免許状を与えられ、保護を受けました」

  資料館には、貴重な古文書のほか、全国の木地師から寄せられた作品が並んでいます。コショウをひく器具やバットも木地師もあります。こけしは作る地域によって顔も形もさまざまです。


 
  木地師資料館

 ■入館料/300 円*要予約
 ■問い合わせ/永源寺観光協会
            0748-27-0444

  現役木地師の工房を訪ねて
 

出番を待つ木々
 蛭谷町からまた山を上がり、君ケ畑町に出ました。ここには現役の木地師である小椋昭二さんの工房があり、たくさんの木が積まれています。
「ちょっとずつ乾きながら、出番を待ってるというところです。水分が抜けてやせていきます。最低3年は置かないとだめです。もともと木が好きで製材の仕事をしていましたが、仕事が暇になったので、思い切って木地師になりました。時々、木地師さんを訪ねてお話を聞いたりして、自力で勉強し、10年間やってきました」


木地師・小椋さんの作業風景
 どんな点が難しいのでしょうか。
「すべて難しいねんけど、轆轤が時速50〜60kmのスピードで回ってるので、最初は刃物がボンと引っ掛かって木が飛んでいったりしました。怖いさかいそこでやめたくなることが多いそうやけど、本業ですることを決意してたので辛抱しました。けど、やっぱり怖いさかい、例えば1週間ぐらいは他のことして、ちょっと怖さを忘れたころにまたやってみたりしました」

  作業を見せていただきましたが、轆轤を回しなめらかに木を削る小椋さんの体は、見る見るうちに木くずで茶色に染まりました。