今回は車を降りて、電車で和歌山市の加太港へ。潮のいい香り。ここは紀淡海峡。
加太港から淡路島洲本市の由良港まで約11km。今から船でそこに浮かぶ四つの島「友ヶ島」へ。
「道ものがたり」なのに、海と船。これには深いわけがあるんです。



加太港から船で友ヶ島へ向かう


沖ノ島の野奈浦桟橋付近


紀淡海峡は交通上も軍事上も要衝だった


伝説が残る孝助松の海岸は美しい

 

    <友ヶ島の地図はこちら>

山が崖になって海に落ち込み潮が流れる紀淡海峡は、
まさに“海峡”そのもの。
ここは、昔から京都・奈良・大阪と四国を結ぶ重要な
海上交通路で、前後の陸の道を含めて「南海道」と呼ばれてきました。
古代、人や物資の輸送は水路の方が遥かに便利。
水路でつながる紀伊、淡路、四国は、大和政権下で
一つの地域と考えられてきました。
その頃の「道」は、人が通る道ではなく、 行政区画を表すエリア。
大法律令で定められた五畿七道では、
大和・山城・河内・摂津・和泉の五つが畿内、
東海・北陸・山陽など七つの道が地方の行政区画とされました。
やがてこの七道は、行政区画だけではなく、
都と諸国を結ぶ官道をも意味するようになりました。
南海道もその一つ。奈良時代には都へ税としての産物が運ばれる道として、
江戸時代には大和街道や淡路街道として利用され、
四国遍路に向かう道ともなりました。
今回は、この「海の道」をたどります。

なぜ、ここに「砲弾」が!?

友ヶ島に到着。友ヶ島は、沖ノ島、神島、虎島、地ノ島の
四つの島の総称で、ここは沖ノ島。
遠くに船が行き交い、足元にはクラゲやカニもいて、いい感じ。
「瀬戸内海国立公園友ヶ島野奈浦桟橋」の立て札。
松の並木や芝生の広場があり、周りは、山、山、山。
ハイキングコースを紹介する看板も出ていて、
そばに高さ80センチくらいの鉄の塊があります。
ミサイルの形、表面に朽ちた跡。立て札には「要塞砲弾」とあります。
なぜ、大砲の弾丸なんかあるのでしょうか。

加太漁協友ヶ島事務所・所長の宮内照雄さんに
お話をお伺いしました。
    
あの砲弾は何でしょうか。
 「『友ヶ島要塞』、俗に『由良要塞』は、淡路島の由良、
 友ヶ島、加太の深山の要塞を並べたラインを作り、
 大阪湾に入って来る軍艦を友ヶ島周辺で撃沈しようと
 建築されました。その後、日清日露戦争が始まって、
 大砲の筒も弾もすべて二〇三高地に持っていき、
 弾だけが残ったので、桟橋の玄関口に設置しているんです」
そうした日清日露戦争より前から、
ここには軍事的役割があったんですか。
 「話では紀州藩がここに海軍奉行を置いて、
 見張りをしていたとか。その後、勝海舟が大阪に来るとき、
 要塞建設の話が出て海軍省が進めた。最終的に勝海舟は、
 司令塔は海上で動きながら司令するところだから、
 友ケ島では攻撃されてつぶれるのであかんと言ったんですけど、
 軍国化していくなか、一人や二人の海軍大臣がもの申しても
 通らない時代だったんでしょうね」
今も砲台跡とかは残っているんでしょうか。
 「明治からもう百何年ですが、6カ所現存しています。
 他に、明治初期に出来た友ヶ島灯台など、ここは宝の山です。
 また、漁師が大波に遭って20〜30人死んだものの、
 大変親孝行の孝助だけが松にしがみついて助かった
 ことからその名が付いた「孝助松」の話や、
 島で一番高い「コウノ巣山展望台」には、
 昔、コウノトリがつがいで巣を作っていたという
 言い伝えなんかも残っています。
もうセミも鳴いていますね。
 「5月中頃から夏ゼミが鳴き出します。
 野鳥もさえずり、のんびりしたいい島です」

加太漁協友ケ島事務所
■問い合せ/073-459-0314

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