今回は古代の長い道を走ります。それはシルクロード。
とはいえ、中国からローマまでドライブするわけではなく、東の終着点へのドライブです。
大阪から大和まで、“日本のシルクロード”を行きます。




日本のシルクロードの東西の道の一つ「長尾街道」



松原市郷土資料館にある難波大道の説明パネル



松原市郷土資料館

 

     長尾街道の地図はこちら>


“日本のシルクロード”難波大道


大阪府松原市に来ました。
日本書紀に、推古21年(613年)11月のこととして、
「難波より京(みやこ)に至るまでに大道(おほち)を置く」とあります。
これがシルクロードの日本の部分にあたるそうです。
大陸の人や帰国者が、難波津に上陸し、大道(だいどう)を 通って
物や情報と一緒に飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ入ったと思われます。

大道のうち、南北の道にあたる「難波大道(なにわだいどう)」は、
大阪市中央区の難波宮跡あたりから南へ真っすぐに延び、
松原市と堺市の境界あたりを通っていたようです。
松原市では、難波大道の跡が見つかっています。

近鉄大阪線・河内松原駅近くの、「松原市郷土資料館」に到着しました。
旧石器時代から縄文、弥生、古墳、平安と、時代を追って出土品が
展示されています。難波大道の跡について、
松原市文化財保護係の 岡本武司さんに伺いました。
      
 「し尿処理場の建設工事に伴う1980年の発掘調査で、
 難波大道の跡が発見されました。市の北西部、堺市との市境です。
 南北に延びる道の遺構で、両端に幅70〜180pの側溝が掘られ、
 道幅は約18m。最初は約40mにわたって発見されましたが、
 その後の調査で約170mはあることが分かりました」

その遺構が、なぜ難波大道と分かるんでしょうか。
 「古事記と日本書紀に、難波宮から南へ延び大和に至る道の
 記述があります。難波宮から延ばした位置が発掘場所と合致し、
 出土品も難波宮の時代と符合したからです」

18mとは広い。古代の道の幅って、普通どれぐらいあったのでしょう。
 「難波大道のような官道は広く、大和では23m、35m、 42m規模の
 道も発見され、平城京の朱雀大路は、約70mもあったとされています」

南の終点と、大和への東西の道についても伺いました。
 「終点は東西に走る竹内街道との交差点辺りだと思われますが、
 もっと南下して和泉への道につながる説もあります。東西の道についても、
 日本書紀や古事記に、丹比(たじひ)道と大津道の記述があります。
 672年の壬申の乱で、大友皇子の軍勢が大和へ攻め上ったという
 記述もあり、大軍を動かせる道が整備されていたことが分かります。
 丹比道は竹内街道に、大津道は長尾街道になっていったと考えられています。
 また、他にも、渋川道、磯歯津(しはづ)道、茅淳(ちぬの)道などが、
 大陸文化を飛鳥の都に伝える重要な東西の道だったと思われます」

 「松原市郷土資料館」
 (ふるさとぴあプラザ内
 ■開館時間/10:00〜17:00(入館は16:30まで)
 ■休館日/水曜日
 ■入館料/無料
 ■TEL /072-336-6800



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