梅が香り、日差しに春の気配が感じられるようになりました。
そこで今回は、車を降りて歩くことにしました。「路地や長屋も取り上げてほしい」
とリクエストをいただいていまので、「古い家並みが残る小道」をテーマに
大阪市内を歩きます。新たな発見がありそうです。

 


大念仏寺


平野郷の小道


新たな発見がありそう


「染と織・まつや」店内

 

     平野郷の地図はこちら>




自治の街「平野郷」

大阪市平野区、JR平野駅の南。
幹線道路から一歩入ると閑静な住宅街になり、
“大阪七幸”の大念仏寺はじめ、お寺がたくさんあります。

その大念仏寺の南東方面には、昔ながらの町家が残っています。
道幅は3mほど。この辺りは、「平野まちぐるみ博物館」
として店舗やお寺などを開放。
町家の保存にも取り組んでいるようです。

昔ながらの町家で商売をされている、
「染と織・まつや」のご主人・松村長二郎さんに伺いました。
        
建物が建てられたのは、いつごろでしょう。
 「150年ほど前です。商売は僕で3代目、90年ぐらいですね」

この辺りの人が言う「平野」とは、平野区のことではないそうです。
 「昔の『平野郷』を平野と言うてます。領主の屋敷を中心に、
 環濠で囲まれていた80ヘクタールが平野郷です。
 元々、全興寺(せんこうじ)を中心に人が住み、 道が出来て、
 文化が育まれた。聖徳太子のころ、 1400年ほど前です。
 そして、1200年前の平安時代、征夷大将軍・
 坂上田村麿の第二子の広野麿が、桓武天皇から
 平野をもろうて今のような街になっていったんです。
 現在石碑のある所に広野麿の屋敷があり、それを中心に
 碁盤の目状の街づくりが行われました。
 大坂夏の陣で豊臣軍に燃やされ、今のはそれ以降の町割ですが、
 発掘調査の結果、平安のころとほぼ同じであることが
 分かっています。『平野』は、広野麿の広野が
 なまったものという説が有力です」

平野の自治意識は今にも受け継がれ、
自分たちで街づくりをする動きが続いているようです。
 「南海のチンチン電車がなくなるとき、八角形した駅舎の
 保存運動をしました。保存はなりませんでしたが
 駅舎の葬式をしたら、おもしろいといろいろ報道されて、
 それならと23年間続けています」

松村さんは、「平野郷HOPEゾーン協議会」の会長です。
 「4年前からしています。世界的に『住民参加の街づくり』が
 いわれていますが、平野は、僕たちが企画し、計画を立て、
 行政には黙ってお金を出してもらう、“行政参加の街づくり”です。
 一番最初に、平野最古の商店である饅頭屋さんを
 江戸時代の状態に戻しました。今は、道路修景をしています。
 2本の道路を黒色でなく脱色アスファルトにして、
 周囲に天然の花崗岩を敷き詰めます。
 まず、スリム電柱に換えて、横断電線を地中化したので、
 空がうんと広いんですよ。100年、200年後の子孫が、
 『先祖がこんなことしよってん』と自慢出来る街にしたいですね」



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