あっという間に師走、12月です。12月といえば、「時は元禄15年…」。
そう、四十七士の討ち入りです。討ち入りは、元禄15年、西暦1702年12月14日です。
つまり、今年は300周年。今日は、その四十七士の街、赤穂を訪ねます。



山陽自動車道を快走


播州赤穂駅前の大石内蔵助像


赤穂市立歴史博物館「塩と義士の館」


博物館内部

 

     <赤穂市の地図はこちら>



赤穂浪士の真相

山陽自動車道を走っています。神戸から山口までの瀬戸内海側を
走る高速道路ですが、大阪方面からは中国自動車道から
神戸ジャンクションを経て入ります。

ゆるやかな山並みを抜け、赤穂インターで下りて、
JR播州赤穂駅前へ。駅前ロータリーには、大石内蔵助の像が
建っていて、その周りを囲むように赤穂義士の錦絵の
看板が並んでいます。一つ一つに、名前とお役目、
年齢や禄高が書かれています。
まさに、四十七士がここにいる感じです。

赤穂市立歴史博物館「塩と義士の館」に来ました。
加里屋川という細い川の畔に、博物館には見えない米蔵の
ような外観で建っています。学芸員の小野真一さんに伺いました。
       
 「ここは江戸時代、赤穂城に隣接して米蔵が建っていた場所
 なので、こんな形にしました。内部は、1階が『赤穂の塩』に
 関する展示。2階が『赤穂の城と城下町』と『赤穂義士』、
 そして城下町に敷設されていた『旧赤穂上水道』に関する展示。
 その四つが、常設展示のテーマです」

諸説ある四十七士について伺いました。
浅野内匠頭と吉良上野介は、どちらが身分が高かったのでしょう。
 「吉良上野介です。高家筆頭でした。石高は四千石あまりですが、
 高家という幕府の儀式典礼を司る特殊な役職で、
 
かなり上のクラスです。浅野は五万石の、
 そんなに大きくない大名です」

大石内蔵助は、どう47人を集めたのでしょう。
 「120人ぐらいから同志であることを誓う文書を
 出させていましたが、仇討ちの意志がなくなったから
 あとはご自由にと、それを一人一人に返しました。
 そうですかと受け取った者には脱落させ、
 抵抗して本当に仇を討つ決意の見えた者だけを、
 50人ほど同志に残して絞りました」

吉良の首を取った後は、どう行動したのでしょう。
 「討ち入り時は47人、引き揚げ時は46人。 足軽の
 寺坂吉右衛門が欠けました。46人は、亡き主君の
 菩提寺・高輪の泉岳寺に向かいますが、途中、
 吉田忠左衛門と冨森助右衛門は別れて、大目付に
 討ち入りを報告して自首します。残りの44人は、
 吉良の首を亡き主君の墓前に供えて報告しました。
 その後、46人は四つの大名屋敷、熊本藩細川家、
 松山藩松平家、長府藩毛利家、岡崎藩水野家に
 お預けになり、翌年の元禄16年2月4日に切腹の
 命が下って、そこで果てました」


 赤穂市立歴史博物館「塩と義士の館」
 ■開館時間/9:30〜17:00 *入館は16:30まで
 ■休館日/毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
 ■入館料(常設展)/大人200 円、小中学生100 円
 ■TEL /0791-43-4600


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