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町づくりは、舟運と渡し舟を生かして。
兵庫県高砂市、加古川の河口から200mほど上流の西側には高砂神社があり、加古川と平行に幅20mほどの運河のような川が流れています。また、高砂神社の数十m北には、それと直角に交わっているやはり運河のような短い水路があり、漁船がたくさん止まっています。幅15m、長さ200 mぐらいです。ここが、昔、加古川の舟運(しゅううん)の舞台となったようです。



    謎の十字水路、その正体。       <高砂堀川の地図はこちら>
 


高砂堀川

 高砂神社の北側、運河のような川が直角にクロスするところに来ました。ここで昔、一体どんなことがあったのでしょうか。高砂市企画総務部市史編さん課市史編さん専門員の田寺典似(みちつぐ)さんにお話を伺いました。
「南北に流れているこの川は、かつて『高砂川』、今は『高砂堀川』と呼ばれています。約600m北で本流の加古川から分かれていて、そこにある樋門が普段閉められているため、南から海水が上がってきて、水がほとんど動かない状態です。江戸時代初期には、ここに船着場が整備されました」
 


高砂堀川と南堀川が交わる所

 直角に交わる水路は、何でしょう。
「南堀川という人工の運河です。江戸時代初期に掘られ、もう少し西の方まであったんですが、道路を通すために埋め立てられました。また、ここから300mぐらい北に北堀川、500mぐらい西に西堀川が掘られ、それらを全部合わせて『高砂堀川』と言っていましたが、北堀川や西堀川は埋め立てられてもうありません。江戸時代の高砂は、堀川と海に囲まれた、南北700m、東西600mぐらいの小さな港町でした」

 高砂堀川は誰が整備したのでしょう。
「1600年の関ヶ原の合戦直後に池田輝政が播磨52万石領主として姫路に入った時、加古川流域の年貢米を川舟で運び、ここで海の船に積み替えて大阪や兵庫に運ぶために港を開いたことが始まりです。高砂川を改修して護岸を築き、荷揚げ場を造り、各堀川を掘って船だまりや造船場にしました。また、上流から積んできた姫路藩の年貢米を収納するため、堀川の岸に長さ50間(けん)(約90m)の米蔵を南北に並べて建てました。50間が二つなので『百間蔵』と呼ばれました」




埋められた北堀川の「稲荷橋」跡

 どんな物が運ばれたのでしょう。
「底が平らな高瀬舟を使い、年貢米を中心に、材木や薪、木製品、きのこ、農産物が上流から運ばれ、ここ堀川で一度陸揚げされます。そして、海の船で回船に積み替えて大阪や兵庫に運び、帰りには、日用品をはじめ、主に肥料に使った『干鰯(ほしか)』や植物、魚の油かすなどを運び、それらと高砂周辺で取れた塩も川舟に積んで上流に上がって行きました。江戸時代中期の高砂の人口は8千余人で、城下の姫路に次ぐ播磨の大交易都市に発展していったようです。しかし、明治時代に道路や鉄道が整備され、港は衰退していきました」

舟板の廃材を壁に使っている家

 舟運で栄えた歴史ある町を、保存する動きがあるようです。
「去年9月、旧高砂町のエリアが兵庫県条例に基づいて景観形成地域に指定されたことをきっかけに、『高砂みなとまちづくり』の活動が始まりました。町の人たちを中心に、学識経験者や兵庫県、高砂市も加わって、20年後の高砂の町をどうするかを考えています。シンポジウム、高砂神社恒例の薪能、十輪寺でのコンサートのほか、それをつなぐ道路にろうそくを並べるイベントや、古い建物のライトアップもしています。景観形成地域なので、家の外観を昔ながらのまま修繕する場合、費用の3分の1が補助されるため、改修する人も現れ始めています。町の人たちの意識も高まってきているようです」