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十津川を去った人、残った人、戻った人。
面積日本一の村として知られる奈良県十津川村は、十津川を中心に山々が連なる地形で、人々はその斜面に家を建てて暮らしています。十津川は、和歌山県新宮市で熊野灘へと注ぐ熊野川の村内での呼び名で、その名の由来については諸説あります。この「十津川」の名が付く町、実は北海道にもあるのですが、その歴史をたどると、ここ十津川村で起きた悲しい過去が見えてきます。



  村をあきらめた人、残った人。     <十津川の地図はこちら>
 

十津川

 村の北部にある有名な「谷瀬のつり橋」から、下流方向に車で5〜6分下って高津(たこうつ)地区に来ました。石碑が建っていて、「明治大水害高津中山崩壊地跡」などと刻まれています。十津川村は、明治22年、村民の運命をも大きく変えてしまうほどの洪水に襲われました。詳しいお話を、十津川村教育委員会教育委員の松實(まつみ)豊繁さんに伺いました。
「正式な測定雨量は残っていませんが、十津川村の年間雨量である約3000mmを超える雨が、わずか3日間で降ったと言われております。『天の底が抜けた』と例えられ、田畑はほとんど壊滅、失われた家は600戸以上あり、生活の基盤がすべて奪われました。山崩れは6000カ所以上で起きたと言われ、十津川全域で赤茶けた山肌を見せていたと思われます。死者は168名ですが、戸籍に登録されていなかった人も含めると200人を超えていたでしょう」
 


洪水被害の様子
(十津川村歴史民俗資料館の展示より)

 どうしてそんなに被害が出たのでしょう。「十津川村の地質に大きな原因があったと思います。非常にもろい岩質の上、風化しているということ。また、幕末の『安政の大地震』で、さらに大きな亀裂がたくさん入っていて、そこに大量の雨が降ったことが、崩壊につながったんじゃないかと言われております」

 一部の方が、北海道へ移住しました。
「大洪水が終わって、一気に北海道移住が敢行されました。普通だったら、翌年の春を待って行くのが人情ですが、田畑や親、子を失い、山林も崩壊して、もうここで暮らせないという思いがあって、10月18日から移住が始まり、翌年を含めて4回、2600人近くが行きました。ハワイ、大台ヶ原、福島県も候補地でしたが、北海道を守るという(国の)大義名分が十津川の人たちの気質に合ったようです」

「明治大水害高津中山崩壊地跡」の碑
十津川村民は洪水の過去を決して忘れない

 移住した皆さんが、現地で村をつくりました。
「今は新十津川町になっていますが、当時、その生活は大変だったようです。木の葉で出来た壁がかちかちに凍って、寄り掛かるとはっと目が覚めてしまうくらい冷たかったと言われています。空知太(そらちぶと)、現在の滝川市では屯田兵小屋が与えられましたが、建設が遅れて450戸中150戸ぐらいしか出来ておらず、6畳・6畳・4畳半の家に4家族が詰め込まれました。翌年7月までに、100名近くの死者が出たようです」

 十津川村に残った人は、どうだったのでしょう。
「残った人たちもまた、地獄じゃなかったかなと思います。改めて自分の家を建て、新しく土地を切り開き、そこで田畑を造って作物を植える苦労。また、北海道へ渡った人たちの財産すべてを、お金を出して買ってますから、残った人たちも十数年は大変だったことでしょう。しかし、災害については新聞にもいち早く載せられ、義援金の募集も行われたことから、たくさんのお金が集まりました。お金は、向こうへ行った人たちと分けあいました」
 
  洪水の歴史を展示
 
十津川村歴史民俗資料館では
常設展示で洪水の歴史を知ることができる

 十津川村役場の前にあります十津川村歴史民俗資料館にやって来ました。十津川村の昔の民家の様子が再現されていたり、十津川村出身の有名人に関する展示があったり、また、明治22年の大洪水に関する展示があったりします。ところで、11月3日から5日まで、十津川村体育文化センターで「十津川村文化祭」が行われますが、こちらからも出展があるようです。館長代理の谷向基(たにむかいもとい)さんに伺いました。
「十津川村では、毎年、11月3日から5日まで文化祭を行っております。この文化祭は、展示の部と舞台発表の部があり、私たち歴史民俗博物館は、『明治22年十津川村における大水害の記録』」と題して、展示発表の部で写真展を行います。写真以外にも、移住した時の足取りなどを示したパネル。水害の状況を表した紙芝居などを用意しております」