![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() |
十津川を去った人、残った人、戻った人。 面積日本一の村として知られる奈良県十津川村は、十津川を中心に山々が連なる地形で、人々はその斜面に家を建てて暮らしています。十津川は、和歌山県新宮市で熊野灘へと注ぐ熊野川の村内での呼び名で、その名の由来については諸説あります。この「十津川」の名が付く町、実は北海道にもあるのですが、その歴史をたどると、ここ十津川村で起きた悲しい過去が見えてきます。 |
村をあきらめた人、残った人。 <十津川の地図はこちら> | |
村の北部にある有名な「谷瀬のつり橋」から、下流方向に車で5〜6分下って高津(たこうつ)地区に来ました。石碑が建っていて、「明治大水害高津中山崩壊地跡」などと刻まれています。十津川村は、明治22年、村民の運命をも大きく変えてしまうほどの洪水に襲われました。詳しいお話を、十津川村教育委員会教育委員の松實(まつみ)豊繁さんに伺いました。 ![]() |
|
|
|
どうしてそんなに被害が出たのでしょう。「十津川村の地質に大きな原因があったと思います。非常にもろい岩質の上、風化しているということ。また、幕末の『安政の大地震』で、さらに大きな亀裂がたくさん入っていて、そこに大量の雨が降ったことが、崩壊につながったんじゃないかと言われております」 一部の方が、北海道へ移住しました。 「大洪水が終わって、一気に北海道移住が敢行されました。普通だったら、翌年の春を待って行くのが人情ですが、田畑や親、子を失い、山林も崩壊して、もうここで暮らせないという思いがあって、10月18日から移住が始まり、翌年を含めて4回、2600人近くが行きました。ハワイ、大台ヶ原、福島県も候補地でしたが、北海道を守るという(国の)大義名分が十津川の人たちの気質に合ったようです」 |
|
「今は新十津川町になっていますが、当時、その生活は大変だったようです。木の葉で出来た壁がかちかちに凍って、寄り掛かるとはっと目が覚めてしまうくらい冷たかったと言われています。空知太(そらちぶと)、現在の滝川市では屯田兵小屋が与えられましたが、建設が遅れて450戸中150戸ぐらいしか出来ておらず、6畳・6畳・4畳半の家に4家族が詰め込まれました。翌年7月までに、100名近くの死者が出たようです」 十津川村に残った人は、どうだったのでしょう。 「残った人たちもまた、地獄じゃなかったかなと思います。改めて自分の家を建て、新しく土地を切り開き、そこで田畑を造って作物を植える苦労。また、北海道へ渡った人たちの財産すべてを、お金を出して買ってますから、残った人たちも十数年は大変だったことでしょう。しかし、災害については新聞にもいち早く載せられ、義援金の募集も行われたことから、たくさんのお金が集まりました。お金は、向こうへ行った人たちと分けあいました」 |
|
|
|
洪水の歴史を展示 | |
![]() |
|
![]() |
|
|
|
![]() |