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吉野川の清流をめぐる、昔と今の物語。
奈良県吉野町を流れる吉野川は、奈良と三重の県境に近い大台ヶ原が源流で、和歌山県に入ると紀の川と呼ばれています。宮滝地区では、多くの巨大な岩の間をぬうように流れていて、深緑色した野性的な川という感じ。周辺には「史跡 宮滝遺跡」と表示された碑が建ち、美しい風景が万葉の歌にも詠まれるなど、特別な歴史がある川のようです。ただ、宮滝なのに“滝”が見当たりません。



  4期にわたり、宮が造営された川。     <吉野川の地図はこちら>
 


吉野川 宮滝

 吉野川周辺に広がる歴史的な風景。これを楽しむため、「吉野観光ボランティアガイドの会」の富田良一さんにお話を伺いました。
「宮滝の滝とは、通常の滝ではなく、水が激しく流れる、つまり“たぎって”いる場所を意味します。昔、ここに吉野の宮が築かれ、万葉集にある『水激(みなそそ)く滝の宮(みやこ)は 見れど飽かぬかも』という柿本人麻呂の歌の『滝の宮』から、宮滝という言葉が出たのではないかと言われています。ここ宮滝は吉野の歴史が始まった場所とも言え、縄文から平安までのいろんな遺物や遺構が出土している複合遺跡があります。古事記には、神武天皇が東征で八咫烏(やたがらす)に導かれて熊野から吉野入りした時、吉野川で漁をする人に会い、井戸から出てきた光る尾を持つ吉野の部族の祖に会ったことなどが書かれています」
 


史跡 宮滝遺跡

 4期にわたって、ここに宮が造られたとのこと。
「まず飛鳥時代に斉明天皇が宮を造られ、その後、31回行幸された持統天皇の時代に少し宮が拡張されました。清らかな吉野の水が流れ、宮の中には園池が築かれて、神奈備の青根ケ峰を仰ぎつつ水辺の祭祀(さいし)がなされたのではないかと思われます。しかし、3期の聖武天皇の時代になると、完全に離宮として使われ、祭祀が行われたとは少し考えにくい。4期は不確かな面もありますが、898年に宇多上皇がタカ狩りで宮滝にみえたという記事があり、上皇の離宮がここにあったのではと思われます。いずれの時代も吉野は、仙人の住む神仙郷でした」

 江戸時代以降は、独特な光景も見られたとのこと。
「庶民が旅行するようになり、吉野山や滝を巡るため吉野川を訪ねる人が増えてきました。宮滝には『二百文岩』や『百文岩』があり、旅人が来ると村の人が飛んで行き、ここで飛び込みを見せるからと言って、高い方で200文、低い方だと100文をもらって水に飛び込む曲芸を見せました」

「象(きさ)の小川」が落ちる「夢のわだ」
万葉歌人あこがれの景色だった

 さらに歴史は続きます。
江戸末期から明治にかけて、上流で切ったヒノキや杉をいかだにして運びました。丸太を3本ぐらいロープで結び、最長16両連結ぐらいで、何人ものいかだ師が乗って操縦しましたが、最大の難所である宮滝の激流にはベテランいかだ師でも非常に苦労し、年に何人もの方が亡くなりました。そのため、『南無阿弥陀仏』と刻まれた『名号(みょうごう)岩』が今も見られます」

 近くに架かる橋が、なぜか「柴橋」と呼ばれています。
「昔は大きな岩と岩とに丸太を架け、板を乗せ、柴垣で欄干を造ったことから柴橋と呼びました。これを渡って向こう側に行くと、万葉集で有名な『象(きさ)の小川』が流れており、そこには屋根のある『屋形橋』が架かっていました。源義経が吉野山から逃走中、あまりに疲れてそこでうたた寝をしたことから、『うたた寝橋』と言われました」



吉野歴史資料館
 宮滝遺跡の発掘調査は、すべて終わっているのでしょうか。
「全然終わってません。、本格的な調査は末永雅雄先生により、昭和5年から始まり、50回近く行われておるんですが、まだ全体の6分の1ぐらいしか発掘調査はされておらないんです。現在までの発掘地は、全部埋め戻されておりますが、吉野歴史資料館に行っていただきますと、縄文から弥生古代に至るいろんな資料が閲覧できますので、ぜひご利用ください。


 吉野観光ボランティアガイドの会
■ガイド料/無料
  *ガイド1人につき協力金1000円
■申し込み/吉野町企画観光課
  0746−32−3081