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よみがえった揖保川の、昔と今。
兵庫県たつの市。この町を流れる揖保川には、多くの井堰(いせき)があります。水田まで水を引くのに欠かせない井堰は、横断工作物であるが故、造ると船が通れなくなるなどの問題をはらんでいます。また、上流の井堰が水を取り過ぎると、下流まで十分に水が流れなくなり、水争いを誘発しかねません。揖保川では、それを抑えるため、ある工夫が行われてきたようです。



   井堰の高さ基準となった石。    <揖保川の地図はこちら>
 


様石(一番右)

 龍野城の近くにある、たつの市立龍野歴史文化資料館。たつの市を中心に、原始時代から近世までの揖保川流域の歴史について展示が行われていて、井堰の資料もあります。学芸員の市村高規(たかのり)さんにお話を伺いました。 まずは、水争いを防ぐために行われた工夫について。
「水がたくさん欲しいためにしっかりしすぎた井堰を造ると、 下流の方で困るため、『様石(のりいし)』という四角い切り石を揖保川の両側に埋め、その高さよりいくら下の高さで
で井堰を築く、というような風習が、江戸時代の終わりごろにありました。不要になった今も、道路脇に移され、記念碑を横に建てて残されています」

 井堰から水田までの水路も、揖保川には独特なものがあったようです。
「揖保川だけかどうかは分かりませんが、支流の林田川は夏場になると干上がる小さな川ですから、揖保川から、そこを越して東側に水を流すために、時代によっては箱樋(はこひ)といわれる木製のパイプを埋め、サイフォンの方式で林田川の対岸へ水を送っていたと記録されています。今も市内の誉田(ほんだ)町で使われています」

 


天和3(1683)年に描かれた
「揖保川・林田川用水絵図」

写真提供:たつの市龍野歴史文化資料館

 水争いは、何かに記録されているのでしょうか。
「秀吉の時代から記録に残っています。ほとんどが絵図で、どういう妥協をしたのかが分かるように描かれています。例えば、支流の栗栖川の水を揖保川の本流に流し込んでから受けている井組がありましたが、その上流で、反対側の岸の井組が勝手に溝を削って自分たちの方へ水が多く来るようにしたと、争いが起きました。その際の裁判で出た結果が、文禄4(1595)年の一番古い絵図に描かれています。文章だけですと、行き違いがあったり、権利の範囲が表現できなかったりしますので絵図に残しましたが、数年して、また水不足になると、やっぱり同じような問題を起こすことがよくあったようで、何度も似たような絵図を残している地域もあります」

 舟運(しゅううん)との関係でも、水の重要性が分かります。
「当時は米作りが最大の産業で、一番重要に考えられていました。そのため、揖保川では高瀬舟が盛んに運航されていたものの、高瀬舟といえども、春に米作りが始まって井堰が造られると運航できなくなり、秋口に水が必要なくなる時期まで運休をしました。井堰を切って舟を通すなどということは、よほど公権力の重要な輸送物がない限り、一切認められなかったとのことです。梁(やな)というアユ漁の仕掛けを作ったりしても、すぐに争いが起こるような状況だったようです。毎秋、高瀬船の業者が井堰を切り、翌年にはもう一度造り直しましたが、昨年の杭が残っている場合もあるんですが、大水が出ると流れてしまうので、また新たに造りました。しかし、地形が変わっているため井堰の位置を少し動かす必要が生じると、必ずまた争いごとが起こったようですね」

揖保川

 ところで、揖保川は10年以上前、水質が急に良くなりました。
「下水が整備されたことで奇麗になりました。以前は、
全国ワースト3やワースト5に常に入っていましたが、今ではアユが遡上(そじょう)するような奇麗な川に戻っております。平成13年に『全国川サミットin揖保川』が行われたのを機会に、揖保川の河川敷が非常で親水公園の整備が重点的に行なわれていますので、スポーツ大会やたこ揚げ大会などが行われるようになっています。3月21日の祝日にも、『龍野ひな流し』が行われます。今年で15回目です。俳句を楽しむ地元の婦人方が、『桟俵(さんだわら)』に乗せた手作りの人形を300人に無料で配り、皆さんがいろんな願いを込めて流すというものです」

 たつの市立龍野歴史文化資料館
■開館時間/9:00〜17:00
■休館日/月曜日(祝日の場合は火・水連休)、
        祝日の翌日(土日の場合は月・火連休)、
        年末年始など
■入館料/大人200 円、
        小学生〜大学生・65才以上100 円
        *特別展の際は料金変更
■TEL/0791−63−0907