淡河川疎水が豊かな田を造った
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何のために20数kmも水を引いているのでしょう。
「稲美町を中心とするこの印南野(いなみの)台地は非常に雨が少なく、年間の降雨量が全国平均の半分程度、約1200mmです。しかも、高台で大きな川がなく、荒れ地や雑木林の間をわずかに開いた畑で、綿や大豆、タバコなどを栽培して生計を立てていましたが、干ばつに苦しんだため何とか水が引けないかと、明和8(1771)年、淡河川に注いでいる山田川から水を引くことを、明石郡神出村の人が考えて測量しましたが、技術や資金の問題で実現しませんでした。その後も数回にわたって測量が行われたものの許可が下りませんでしたが、江戸末期の神戸港の開港により安く質の良い綿が輸入されて綿の値段が暴落した上、明治6年の地租改正で高くなった税金を納められずに、土地や家屋を売って村から離れる人が続出して、村の存続にも関わる深刻な事態となりました。打開策として畑を水田化する必要に迫られ、『山田川疎水』の請願運動が起きて、明治11年に兵庫県への請願が行われました。県は受け入れて調査をし、疎水を通すことが可能であることを示して、国に技師の派遣を申請したのですが、明治19年に内務省から派遣された技師が調査をしたところ、地形が険しくて岩質が悪いため、予算の範囲内では無理ということになり、急きょ、工事がしやすい淡河川に水源を変更して、明治21年1月27日に起工式をしました。しかし、淡河疎水の開通後、田が増えて再び水不足となったため、山田川疎水の計画が復活し、明治44年から工事が始まって大正8年に完了しました」
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