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志染川の遺産、巨大サイフォンと眼鏡橋。
兵庫県三木市を流れる志染(しじみ)川に来ました。この川は西に流れていて、市内で美嚢(みの)川に合流し、その美嚢川は加古川に流れ込んでいます。一方、東側では淡河(おうご)川が合流していますが、そこから取った水が、三木市の南西に隣接する稲美町まで「淡河川疎水」で運ばれています。北側の山から落ちた水が、志染川を越えて南側の山まで上がる「御坂(みさか)サイフォン」とは、一体、どういうものなのでしょうか。


   疎水でよみがえった村。        <志染川の地図はこちら>
 


練部屋分水所

 志染川から南西方向へ移動。神戸市西区にある「練部屋(ねりべや)分水所」に来ました。疎水、サイフォン、分水所と、謎は深まるばかりです。兵庫県淡河川山田川土地改良区の井澤弘昌(ひろあき)さんにお話を伺いました。
「淡河川疎水は、神戸市北区淡河町の淡河川からスタートして、この練部屋分水所を経由し、四つの水路に分かれ、さらに水路からも枝分かれして稲美町の池へと流れています。淡河疎水の長さは26kmほどです」
 


淡河川疎水が豊かな田を造った

 何のために20数kmも水を引いているのでしょう。
「稲美町を中心とするこの印南野(いなみの)台地は非常に雨が少なく、年間の降雨量が全国平均の半分程度、約1200mmです。しかも、高台で大きな川がなく、荒れ地や雑木林の間をわずかに開いた畑で、綿や大豆、タバコなどを栽培して生計を立てていましたが、干ばつに苦しんだため何とか水が引けないかと、明和8(1771)年、淡河川に注いでいる山田川から水を引くことを、明石郡神出村の人が考えて測量しましたが、技術や資金の問題で実現しませんでした。その後も数回にわたって測量が行われたものの許可が下りませんでしたが、江戸末期の神戸港の開港により安く質の良い綿が輸入されて綿の値段が暴落した上、明治6年の地租改正で高くなった税金を納められずに、土地や家屋を売って村から離れる人が続出して、村の存続にも関わる深刻な事態となりました。打開策として畑を水田化する必要に迫られ、『山田川疎水』の請願運動が起きて、明治11年に兵庫県への請願が行われました。県は受け入れて調査をし、疎水を通すことが可能であることを示して、国に技師の派遣を申請したのですが、明治19年に内務省から派遣された技師が調査をしたところ、地形が険しくて岩質が悪いため、予算の範囲内では無理ということになり、急きょ、工事がしやすい淡河川に水源を変更して、明治21年1月27日に起工式をしました。しかし、淡河疎水の開通後、田が増えて再び水不足となったため、山田川疎水の計画が復活し、明治44年から工事が始まって大正8年に完了しました」


御坂サイフォンのパイプ
 御坂サイフォンとは、どういったものなのでしょう。
「サイフォンは空気の圧力を利用して液体を移動させるものですが、この御坂サイフォンは、北側の高台から志染川が流れる谷底まで、斜面に沿ってパイプで水をドスンと50m落とし、川を渡らせてから反対側の谷の斜面を上らせるというもので、水を落とす北側の方が南側よりも2m50cm高いので、ちゃんと上っていくわけです。この練部屋分水所は、二つの疎水の水を集めて四つの水路へ分けていくものですが、それぞれの水路が担当する水田の面積が違うので、それに見合う水の量を平等に分配する必要があり、ここで調節をしております」