<黒田庄町の地図はこちら>
川による交流。
対岸に来た。
「こちらは篠山川で、この付近は小苗(こなえ)の村。
丹波文化圏の雰囲気が強い場所です。黒田庄の北端で、
現在の行政的にはここが丹波と播磨の境ですが、古代は、
滝野の上手と西脇の下手あたりがその境であって、
この辺りは丹波だったと考えられます。篠山川の沖積地です」
私たちが立っているのは、まだ新しい堤防だ。
やはり「東はりま加古川水の新百景」の一つ、
「筏(いかだ)引持ち越し場所跡」がある。
「ずっと以前、小苗と三ケ村井堰の村で話し合い、
小さな掘割を井堰の下手まで造り、小さな筏を通せる
ようにしまた。舟はだめだが、筏ならという妥協案を
出したわけです。でも、筏を通すのは、水田に水が
必要ない時だけだったようです。下手の黒田地区の
川岸にも、筏を組んだ場所があって、この周辺から
下ろした木も組んで流していたようです」
地名が気になる。船町、蔵元、えびす神社。
みんな水と関係がありそうだ。
「船町は井堰の下手で、舟運が開けたので船町です。
以前は、井堰辺りから川が東西に分かれ、
中州が南へ続いていたようで、えびす神社も中州に
あったのではないかと。昔は、辻や中州などに市が
立ちました。市にはえびすの神様をよく祭りますから、
近年、西宮えびすの分霊をお祭りして、現在の
お社ができたという歴史の流れでしょう 。
この黒田庄町は、いわば通過地点。人の往来が多く、
丹波と播磨の人や文化の交流が、今でもいろんなもの
に残っています」
舟運の発展。
おなじみの闘龍灘のある加古川の中流域まで下った。
「東はりま加古川水の新百景」の一つ、「滝野船座跡」に来た。
「黒田庄からの舟は、ここで岩盤による小さな滝で
通れなくなるので、滝の上手で荷物を降ろし、
下手へ荷物を積み替えたようです。
荷物の揚げ降ろしをしたのは向こう岸の新町で、
『船座』はこちらにありました。『座』とは株仲間の
同業組合の組織で、今なら株式会社の株主です」
景観はさすがだ。
「こういうところは上手に2〜3カ所はありますが、
これぼど岩盤が突出したところはここだけですね。
黒田庄からここまでの東の川岸には、割合にこういう
岩盤が出たところが多くて、堤防が少ないのに川が
早く流れています。でも、下流域では、
やっぱり堤防が必要になってきます」
白い泡が立つ。すごい水量が、音を立てて流れている。
「掘削したのは明治初期です。『船座』がなくなり、
近代的交通網がぼつぼつと整備されはじめた上、
掘削によって舟が自由に通れるようになりました。
黒田庄の村上清次郎が、掘削で日本海と瀬戸内海を
結ぶ計画を持っていたようなんです。
ただ、しばらくは高砂から黒田庄あたりまで自由に上がる、
新しい舟運が開けてきたようですけど、明治30年代には
大阪から福山までの鉄道ができ、大正期に入ると播但鉄道が
できたりして、舟運がだんだん衰えてきたようです」

加古川上流の黒田庄町から下る、素敵な“川ものがたり”が体験できた。
灌漑と舟運の歴史にタイムスリップしたひとときだった。
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