兵庫県の加古川上流、黒田庄町。荘園の名から取った町名だ。
歴史が古く、神社仏閣も多い。加古川に沿って開け、
幾度となく洪水に悩まされて川と闘い、また、川に育まれた豊かな街でもある。

 

 

  <黒田庄町の地図はこちら>



川に育まれた。

黒田庄町は、兵庫県明石市の真北に位置し、
明石同様、東経135度の子午線が通る。
酒米・山田錦をはじめとした穀倉地帯であるのは、
加古川のたまものだ。

今回は、黒田庄町の灌漑と 舟運(しゅううん)の歴史について、
黒田庄町文化財保護審議会会長の桂義一さんにご案内いただいた。

加古川本流は96キロあり、流域人口が多い。ここは、その上流域だ。
 「黒田庄町は、篠山川と佐治川の合流点にある
 三ケ村井堰から南に開けています。加古川には
 支流がたくさんあって、佐治川はこのあたりから
 上流の氷上郡にかけての元々の呼び名です」

荘園の街「黒田庄町」と加古川の水との関わりを伺った。
 「三ケ村井堰から、三つの村の田んぼの用水を引いています。
 井堰の場所は、地元で『出合い』と呼ばれている篠山川と
 佐治川との合流点。水が両方が寄り集まる上、
 流れが南に変わるため、造るのに随分苦労したようです。
 江戸初期には既にありましたが、土地の権力者の下、
 労力や経済力をかけて造られたようです。井堰は普通、
 必要ない時は水門を開けますが、ここは常に堰を
 止める『常堰』です。他にあまり例がないようですが」

それだと、舟が通れないことになる。
 「舟はここで荷物を揚げ、別の舟に積み替えて下ります。
 舟運としては非常にしんどいんですが、
 水利が優先というのは普通の歴史の流れだと思います」

中心に加古川が流れ、周りは豊かな山。
黒田庄町の荘園の話を伺った。
 「荘園は、川の東側を中心に、現在の門柳山
(もん
 りゅうざん)、当時の大阪・住吉神社の社領である
 『椅鹿山(はしかざん)領』にありました。
 奈良時代終わりごろの大仏殿建立時には、
 そこから用材を切り出して川を下ったといいます。
 『黒田』の名は風土記に出ていて、
 土の色が黒いので名付けられました」

今はオートキャンプ場があり、
西日本ではトップクラスの評判になっている。
 「子午線が通っているので、日時計の丘公園という
 のがあって、そこにオートキャンプ場があります。
 大変人気で、2ヵ月ぐらい前からでないと
 予約ができない盛況ぶりです」

利水の記念碑。
 
三ケ村井堰の碑文に来た。
三ケ村井堰は、永徳3年に常堰として認められた
歴史を持つ、灌漑が目的の井堰。
現在は、西部井堰として5カ村を潤す。
ここは、平成12年度自治振興事業で選ばれた、
「東はりま加古川水の新百景」の一つだ。

他にも碑文があるが、漢文なので桂さんに教えていただ
いた。
 「一番上のが、昭和18年ごろ、コンクリートの井堰に
 改築された時の記念碑。左下が、平成12年に西部井堰に
 改築された時の碑です。コンクリート井堰への改築時、
 洪水による決壊で工事が中断しましたので、
 完成時には皆さんが本当に喜びました。
 それで、ここが井堰の公園になったわけです」


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加古川


西部井堰(旧三ヶ村井堰)


桂義一さん


三ヶ村井堰は珍しい「常堰」だった


ラジオ大阪