吉野川上流の奈良県川上村にある、大滝ダムの建設現場近くに来た。
巨大だが、半円形のデザインをうまく取り入れた柔らかいイメージのダムだ。
連続アーチは、パリや京都などを参考に、美しく見える黄金分割比で造られている。
地域の幅広い意見も取り入れるという、工事開始当時としては新しい試みも行われている。

 

 

  <川上村の地図はこちら>


大滝ダム、完成間近。

大滝ダム工事事務所・副所長の新高庸介さんに伺った。
 「ダム本体は、去年8月に打設が完了。これから、水位を計画の
 最高部まで上げて下げる試験湛水(たんすい)をして、
 ダム本体や周辺設備をチェックし、その後で供用開始になります。
 水を最高部までためると、水面は2.51平方キロメートル、
 甲子園球場の約170倍で、容量は8400万立法メートル、
 甲子園球場約140杯分になります」

満水になるのに、どのぐらいかかるんだろう。
 「上流からの水、雨の降り方で違います。また、下流での
 水の利用者や生物に必要な量は流さなければなりませんし、
 あくまで試験なので洪水時期にははためられません。
 そうした要素と過去の雨量のデータから計算すると、
 早くて3カ月、長いと2年ぐらいです。
 やってみないと分かりません」

このダムの最大の役割を聞いてみた。
 「大滝ダムは、昭和34年9月の伊勢湾台風を契機に計画されました。
 通常の水量は多くはありませんが、上流に日本有数の
 多雨地帯・大台ケ原があるため差が極端で、毎年のように
 起きている洪水被害の軽減がダムの第一の目的です。
 ただ、水の有効利用のため、河川の生物たちのための水の確保、
 奈良県、和歌山県への都市用水の供給、水力発電を行います」

ダムのデザインがきれいだが、何か工夫はあるのだろうか。
 「ダム本体はコンクリートの塊ですから、周辺の景観とマッチ
 したデザインにと、デザイナーや一般から意見を募り、
 アーチ形状にしました。道路の造成時に開いた山の
 地肌には、緑の復元作業をしています」

完成すると、川上村の様子も随分変わることだろう。
 「川上村は、工事中から大きくいろいろ変えてきており、
 ご協力いただいています。ダム完成後は、貯水池が観光資源
 としてどう利用できるかが課題でしょう。ダムは本来、
 下流の洪水軽減や都市用水供給が目的なので、下流の方に
 水源地への理解を深めてもらい、上下流の交流を増やして
 いければと思います。宮の平の宅造地の下には、川上村が
 巨大な龍を造りました。貯水池にするため移転していただいた、
 丹生川上神社のあった場所です。雨を象徴する意味が
 あるのでしょう、龍で以前の場所を示しています。
 水位調節により、冬は水没しますが、夏には姿を現します」
これが新たな名物になるかもしれない。

大滝ダム工事事務所ホームページ

大滝ダムホームページ


後南朝の悲哀を伝える。

ダムから15キロメートル上流、金剛寺。
2月5日午前10時を回った。
山の葉が雪で白く煙り、足元に雪が積もっている。
はるか下には吉野川。金剛寺は、大峰山の開祖・役行
者(えんのぎょうじゃ)が開いた由緒ある寺で、
後南朝の歴史を伝える寺としても知られる。
今日ここで、後南朝最後の王子・自天王ゆかりの
儀式「朝拝式」が行われる。

金剛寺境内にある自天王神社の宝物殿の周囲には、
白地に黒い菊の御紋の幕が張られ、その一角で儀式が厳かに
行われている。裃姿の皆さんが口にくわえる榊の葉、
宝物殿に安置されている自天王の鎧、祝詞の後の玉串…

川上村文化財保護審議会会長の石本伊三郎さんに伺った。
       
 「朝拝式は、後亀山天皇の玄孫・自天王と忠義王をしのぶ
 儀式です。お二人は室町幕府に追われ。川上の山深い
 三之公にお住まいになり、享徳元年(1452年)2月5日、
 自天王が即位され、朝賀大礼式を挙行されました。
 これが朝拝式の根本です。ところが、長禄元年
 (1457年)12月2日、赤松の残党が、お二人を同時に
 襲撃して殺害しました。自天王18才、忠義王12才でした。
 
それから550年、川上村民は天皇家に対する忠義の
 心を失わず、お祭を続けてきました」


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大滝ダム


新高庸介さん


川上村が造った巨大な龍


白天親王神社


朝拝式

 



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