由良川は、京都府美山町の芦生を源流に、福知山盆地へ流れ込み、大江町から舞鶴市、
宮津市を経て、日本海に注ぐ。全長146キロ。流域面積は京都府の40%を占め、
ここ綾部市はその中流域にあたる。今回は、綾部の街と由良川との関わりを探る。

 

 

       <由良川の地図はこちら>


由良川が歴史を創る。

この辺りでは、二千年も前から由良川の豊かな水で
稲作が行われてきたそうだ。弥生時代の灌漑用の堰や
水路も見つかっている。久田山の「綾部市資料館」を訪ね、
遺跡発掘にあたっている近澤豊明さんに伺った。

綾部に人が住みついたのは、ずいぶん昔からのようだ。
 「この資料館が建つ丘からも、何万年も前の旧石器が
 出ています。綾部に何万年も前から人が住んでいたのは
 間違いないですね。稲作は、日本では二千数百年前に
 大陸から技術が入って来て始まり、採取と狩猟で暮ら して
 いた縄文時代から、稲作の弥生時代へと変わっていきました」

その証拠を発掘しているのが近澤さんだ。
 「発掘で見つかるのは道具です。狩りの道具、田畑で使う
 道具、土木工事の道具が、手がかりのように埋もれています。
 例えば米作りの道具なら、土地を耕すスコップやくわの
 ような物、収穫道具、米のもみを脱穀する道具などです」

歴史と由良川とのつながりは深いようだ。
 「由良川抜きに歴史は語れません。エジプトとナイル川、
 中国文明と黄河のようなもの。田んぼは水がないとだめだし、
 交通路としても重要。川に沿って集落が出来、当然、
 遺跡も川沿い。とくに農耕社会に入ると、本当に重要に
 なってきます。灌漑の技術はいわば土木技術なので、
 弥生時代に日本の土木工事が始まったと考えられています」

それは、どんな遺跡なのだろう。
 「川をせき止め、水路を掘って水を引く。田んぼで使い、
 いらなくなった水を川へ戻す。一番単純な灌漑システムです。
 農耕には、ある程度自然をコントロールすることが必要ですが、
 1997年に綾部でもそんな遺跡が見つかっています。
 農地の区画整理事業の前の発掘調査で田んぼを掘ると、
 二千年近く前の川の跡が見つかりました。
 由良川の支流の犀川近くの遺跡ですが、そこから木材が
 いっぱい出てきました。もともと川なので、
 水分をたっぷり含んだ土に埋もれて、空気に触れない
 真空パック状態になり、保存には好都合だったんです」

出てきた30センチぐらいの、古い木の棒のような物を見せていただいた。
 「歯ブラシや柵のように並んだ杭が、たくさん出て来ました。
 横木が直交する形で。どうも川に丸太の横木を渡して、
 要所を杭で留めていたようです。石や草で隙間を詰めて、
 堰やダムをこさえていた跡もありました。そこから溝が掘られ、
 水路が延びていました。先には水田があったと思われます」

堰は、弥生時代の日本人が考え出したものだろうか。
 「二千数百年前、米作りは大陸からシステムとして入って来たんです。
 米粒や稲もみだけ来たんじゃなく、農耕というシステムが
 伝わって来た。作り方が分からなきゃ、種が来ても仕方がない。
 作り方にしても、単に田んぼに植えればいいというものじゃなく、
 水を引く灌漑や、灌漑工事に必要な道具など、
 全部ひっくるめて完成されたシステムとして伝わって来たんです」

資料の絵にある道具類は、今とほとんど同じ形だ。
 「スコップもくわも、形自体は2000年以上、
 なにも変わっていません。堰も同じで、綾部なら綾部用水や
 綾部井堰も、弥生時代と構造上は変わっていません。
 木や土を巧みに操る農耕弥生人は、水利の達人ですね」


「綾部市資料館」
■開館時間/9:00〜17:00
■休館日/月曜日、年末年始
■入館料/無料
■TEL /0773-43-1366

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由良川


近澤豊明さん


2000年前の木の杭


綾部井堰


ラジオ大阪