<円山川の地図はこちら>
それは、円山川から始まった。
豊岡盆地は、円山川が運ぶ土砂の堆積層で出来ているが、
地質は豊岡の発展との関係について伺った。
「堆積する土砂は、流域の地形や川の形状などで異なります。
最上流部は岩が転がり、中流部だとやや大粒の砂、
下流部ではそれと違う粒子の砂になります。豊岡盆地には、
非常にきめ細かな、粘土に近い堆積土が溜まりました。
これが特有の産業を発達させました。最初は、鉄や銅などの
製品を造る職人の『鋳物師(いもじ)』です。この辺りは
『鋳物師の里』と呼ばれていました。この産業が生まれたのは、
堆積土が型を取る粘土に最適だからです。また、出雲からと
思わ れる鉄の移入や重量物である製品の送り出しにも、
円山川の水運が便利でした」
鋳物師の語源がシュメール語だというのは本当だろうか。
「シュメールは、チグリス・ユーフラテス河畔、
今のイラク一帯ですが、シュメール語の『シムグ(simug)』が
中国を経て『イモジ』となり、『鋳物師』の文字を当てたようです」
シュメールの鉄の文化が、大陸経由で豊岡盆地まで来た。
わくわくする話だ。
「平安初期に出た『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に、
『日撫直(ひなどのあたえ)』という名前が出てきます。
『日撫』とはここのことですが、鋳物師として名を成した
『日撫直(』が、鋳物師の本場の大和か河内へ進出したのでしょう。
また、明治に入り、この土地の三宅氏という鋳物師が川崎家の
養子となって、川崎製鉄の創建に寄与したと伝えられています」
川の向こうに瓦屋さんがたくさんある。これも鋳物師と関係があるそうだ。
「武器・兵器を製造していた鋳物師は、江戸期の太平の世に
なると、鍋・釜や寺の梵鐘などの平和産業に切り替わり、
その結果、城下町が発達しました。そこで、火災予防の面から
瓦葺きが奨励されます。鋳物師は、火を扱う技術を応用し、
型枠用の堆積土を原料とした瓦焼きに転じました。
『鋳物師の里』に瓦屋があるのはそのためです。もっとも、
昭和30年代に生産を中止して、今は取り次ぎに専念して
おられるようです」
時代のニーズにあわせて変遷したわけだ。
「時代にニーズというと、明治に入ると舞鶴に軍港が置かれ、
その需要を当て込んで、明治30年に但馬煉瓦株式会社が設立
されました。鋳物師、瓦屋の技術を利用し、堆積土を原料と
して煉瓦を焼いたんです。ただし、技術面で失敗して、
倒産しました。また、明治40年には、鉄道をあてこんで
中江煉瓦工場が建設され、こちらの方が成功を収めました」
豊岡は柳行李やかばんの街として知られているが、
これも円山川と関係があるのだろうか。
「堆積土が、柳行李の材料コウリヤナギの栽培に適していたため、
ヤナギ産業が発達しました。柳行李は、90%のシェアを占め
ていたようです。江戸時代には豊岡藩が大阪に会所を設け専売制を
敷いています。しかし、時代に製品があわなくなって、かばんへ
移行しました。始まりは、革やビニールのかばんではなくて、
硬質の紙を使った『ファイバーかばん』でした。円山川は、
堆積土を通じて豊岡盆地に特有の産業をもたらしました。
このことは、あまり気づかれていませんでした。これらの産業は、
時代と共に消滅しかけていますので、記録だけでも残して
おきたいものです」

豊かな清流、円山川。どこの街にもないふっくらした感じのたく
さんの水を、いつもたたえている。この素敵な川が、これだけ多
くの文化を生み出していることに初めて気づいた。
もう一度、新たな思いで、円山川を見たり考えたりできる幸せを感じた。
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