豊岡市の円山川に来た。兵庫県生野町の標高640mの丸山を源流に、
95の支流を集めて日本海に注ぐ円山川。長さ68キロ、流域面積1300平方キロで、
兵庫県では加古川に次ぎ2番目の流域面積を持つ。特徴は流れが緩やかなこと。
上流の出石川との合流点から河口まで16キロあるが、高低差は2mを切る。

 

 

       <円山川の地図はこちら>


川の名前が、歴史を物語る。


六方川と円山川の合流地点に、巨大な水門がある。六方排水機場だ。
この辺りは浸水が多く、平成2年の19号台風では675戸もの住宅が
水に浸かった。円山川の水位が上がると六万川への逆流を防ぐために
水門を閉じるが、そうすると六方川の水が出ていかないのでポンプで
排水するわけだ。
ここで豊岡市文化財審議委員の山口久喜さんに伺った。
この川は、いつごろから円山川と呼ばれるようになったのだろう。
 「川全体の名称としては江戸時代からありました。
 文化10年(1800年代初頭)の文献に、円山川及び但馬川が
 出てきます。しかし、一般的に呼ばれるようになったのは明治です。
 国が河川を管理するようになったので、河川全体の名称が必要になり、
 地域ごとに違っていた名前を円山川に統一したわけです」
地域ごとに、どんな名前で呼ばれていたのだろうか。
 「上流部から、朝来川、養父川、気多(けた)川、城崎川。
 気多は現在の日高町一帯です。日本海沿岸には気多という地名が散在し、
 共通の語源と考えられています。ロシア語でサケの意味。
 サケが遡上する所に『気多』の名が付けられたようです」
川は名前ひとつとっても面白い。
 「ほかにも、地域の人が支流と区別する意味で『大川』と呼んだり、
 タデ(蓼)がよく生えていたせいか『蓼川』という名前もありました。
 また、城崎では、水系が異なる市川水系の生野銀山の有名さにあや かって
 『生野川』と呼ばれていましたし、逆に朝来郡では、城崎の 当時の名前
 である『湯島』の有名さにあやかって『湯島川』と呼ばれていました」
ところで、北前船の航路と円山川とは関係があるのだろうか。
 「江戸中期、享保5年から宝暦3年(1720〜1753年)まで、
 江戸の商人が『日本海近回り回船』計画を持ちかけ、実施されました。
 日本海を西へ下る北前船の積荷である米を、小型の船に積み替えて
 円山川をさかのぼり、生野峠を牛で運び、今度は瀬戸内海方向の
 市川水系を船で下って姫路の妻鹿(めが)港へ近回りするわけです。
 メリットはコストの低減です。西回りで瀬戸内海へ入るより、
 約4%安いという目論見の文書が残っています。ただ、長続きは
 しませんでした。小型の船はせいぜい30石船までの大きさ。
 円山川にいくつかある堰では荷物を積み替え、櫓や櫂ではなく、
 両岸から綱で引いて上っていきました。最近まで、
 両岸に綱引きの道筋が残されていたそうです」

 

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六方排水機場の水門


円山川


豊岡市文化財審議委員の山口久喜さん


ラジオ大阪