●インタビュー前半
藤原:北船場は、どの辺りのエリアのことを言うのでしょうか?
澤田(以下、澤田・敬称略):北は土佐堀川、東は東横堀、西は西横堀、南は本町通りに囲まれたエリアを北船場と言います。
藤原:正式な街の名称ですか?
澤田さん:住居表示で言うと、北船場っていう表示はありません。でも、江戸時代には北船場って言われていました。最近あまり使う人がなくなった、そんな地名です。
藤原:その北船場には、どんな人たちが住んでいたり、営んでいたりしてきたのですか?
澤田:船場は、商人の街ということで有名だったんですね。特に北船場は金融機関や薬品が多かった。道修町は薬の街、北浜は証券の街、淀屋橋は銀行。また、住友や鴻池といった豪商がいたところでもありました。中船場や南船場は繊維が多かったんですが、北船場は金融などが中心でした。
藤原:なるほどね。金融業やお薬、豪商の街ということですが、どんな街の特徴を持っていたのでしょうか?
澤田:学問が非常に盛んなところだったようです。福沢諭吉も学んだ緒方洪庵の『適塾』や『懐徳堂(かいとくどう)』などの民間の学問所があったり、明治時代以降も学業が盛んだったということで、小学校の越境入学も多かったと聞いています。また、大正から昭和の初期に建てられた近代建築がたくさん残っているエリアでもあります。
藤原:澤田さんは“街づくりの専門家”ということで、オフィスを北船場にある平野町(ひらのまち)に構えていらっしゃいますが、なぜこの北船場に注目されたのでしょうか?
澤田:14年前に会社を独立してから、北船場の平野町にオフィスを構えています。そんな中で、4年ぐらい前から、淀屋橋の西側の街をブランディングできないか、街自身をブランド化できないかということで、“淀屋橋WEST”という活動をしています。“淀屋橋WEST”とは、淀屋橋の西側が金融機関の統廃合などで銀行の店舗がなくなったりして、昔のような元気がなくなってきたので、街をあげてお洒落な街にしていこうと始まったものなんです。また、北浜の三越が315年の歴史を閉じて、その跡地にマンションが建てられています。その開発の仕事もお手伝いさせていただいています。そうした形で、いろいろな場面で北船場に接してきまして、非常に面白い街だと気付き、こんな活動をしているのです。
●スタジオ
藤原:北船場について情報発信をしていこうと、2年前に5人ぐらいで、『北船場くらぶ』を始められたそうです。立ち上げられたきっかけは、ちょうど街が見直されてきた時期で、何か面白いことができないかな?ということだったそうです。北船場というと、オフィス街というイメージもありますが、昔ながらの風情があるビルや、三休橋筋などのように、並木のある素敵な街並みなんですよね。後半は今後の予定などについて伺っています。
●インタビュー後半
藤原:北船場で14年間もオフィスを構えておられるということですから、その14年間のうちに、いろいろな発見があったんでしょうね?
澤田:本当にいろいろな発見がありましたね。ちょっと見方を変えると、今まで気が付かなかったことがどんどん生まれてくる。例えば、瓦町(かわらまち)には『平岡コーヒー』さんという喫茶店が古くからあるんですね。お店の前をずっと通っていたんですけども、ふと目にとめて、中に入ってみると、コーヒーがおいしくてドーナツが名物ということが分かったんです。他にも、淡路町(あわじまち)2丁目の船場ビルの中に、ふと入ってみると、馬車が入れるような中庭があって、ヨーロッパの街に迷い込んだような雰囲気なんですね。聞いてみると、やっぱり元々は、馬車が入っていて、住宅兼オフィスビルとして使われていたそうです。今はオフィスビルとして使われています。最初は全然分からなかったんですけど、ここに何年もいると、そういった発見があります。
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代表
澤田充さん
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『エル・ポニエンテ・カルボン』
淀屋橋WESTの1号店としてオープンした
炭火焼のスペイン料理店
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『旧小西儀助商店(兼住宅)』
明治初期、関西で初めて洋酒製造を
手がけた小西儀助の住居兼店舗
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数々の名建築を残した 河合浩蔵氏の設計による
『新井ビル(旧報徳銀行大阪支店)』
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シンポジウム打ち合わせの様子
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