Q.太閤路地プロジェクトは、どういうことを目的に、活動しているのですか?
「太閤下水っていう歴史的遺構をみんなに知ってもらって、その上に残っている路地を上手に街づくりに活かし、建物や地域の活性化、バリューアップを図ろうというのが最初の目的だったんです。しかし、それから段々仲間が集まってきて、「どうせやったら秀吉の時代から続いている船場独特の文化も、みんなに紹介していこうや!」ということになりその背割下水の上にできている路地(=太閤路地)に面したビルのお座敷なんかで落語会をやったり、あるいは上方舞を見せていただいたりというような、小さいけれども船場ならではのイベントみたいなものを何回かやって、その度にいろいろ好評いただいています」
Q. 「太閤下水」って、どんなものなんですか?
「豊臣秀吉が、大阪城築城に伴って整備した都市インフラの一種で、それを“背割下水”と言ってたのですが、別名“太閤下水”といいます。
しかし、“下水”といってもトイレの水をそこへは流さなかったんです。なぜなら当時は、大体農家の人が汲み取りに来ていましたから。いわゆる生活排水、台所の水とか行水した水とか、そういったものを背割下水、つまりこの太閤下水に流してたんですね。ですから当時は暗渠じゃなく開渠、オープンな溝みたいな感じだったと思いますね」
Q. それはどの辺りに、どのような状態で造られたのですか?
「船場一帯に、基本的には東西方向に造られています。建物の背中合わせになって造った溝ということが「背割」のいわれです。秀吉は、大阪城を築城した時に、いろいろお堀を造りましたが、東横堀川と西横堀川に夾まれた船場一帯に生活排水を上手に処理できる都市インフラ、太閤下水、背割下水という溝を造ったんですね。
当然溝ですから、水上の方は浅くて細い。水下になると大きく広くなるんですけど、幅は狭いところで大体数10?。広くなると、2、3mのところまであります。深さもいちばん深いところでは、人が立って歩けるぐらいのところから、3m弱ぐらいのところまで、石積みで、いわゆる石垣みたいになってますね」
Q.当時、それぐらいの規模で下水を造るのは、難しいことではなかったんですか。
「土木技術的にいえば、お城の石垣を造るぐらいの技術があるわけですが、ただ、それを庶民の生活のためにそういった都市インフラを整備するっていう考え方は、やっぱり画期的だったと思いますね。だから、よく外国映画で、パリの地下下水なんか有名ですけど、あれも、19世紀前後に出来たものですけれど、それに匹敵するようなものが、秀吉の時代ですから、16世紀ですね。随分早くに出来ていたという意味で、世界に先駆けた都市インフラで、大阪としては、「太閤さんは、こんなことをやりよったんやぞ!」ということを宣伝したい気分なんですけどね」
Q.私たちが船場を歩いて、太閤路地を見つける方法っていうのはありますか。
「基本的に○○通ってありますね。淡路町通、備後町通・・・。通りと通りのちょうど、ど真ん中に東西方向に向かって、背割下水っていうのは流れていたと考えて、まず間違いがないと思いますね。ただ具体的にここは太閤路地なんかな?ということになると、太閤路地マップというものを現在制作中ですので、また近いうちにそういうのを発表していきたいと思います」
Q.今後の活動についてはどのようなことをお考えですか。
「現在ビジネス街として、この辺りは発展しているわけですけど、そういった会社帰りの人たちがちょっと帰りに立ち寄って憩えるような、そういうような空間を太閤路地に絡めて造っていって・・・。第1号目の太閤路地はワインバーであるとか、ミニギャラリーとか、ジャズのライブハウスとかそういったものが並んである空間にしてあるんですけど、ちょっと落ち着いた雰囲気の、帰り際にちょっと憩えるというような、そんな路地になっていければなと思ってるんです」
「太閤路地プロジェクト」の活動に興味のある方は下記の方までご連絡ください
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「太閤路地プロジェクト」
戸田和孝さん |
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太閤路地での打ち水大作戦 |
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太閤さんゆかりの東横堀川下り
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整備された太閤路地おしゃれな路地が多い
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太閤下水。実はたくさん残っているんです!
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