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   これぞ「三井の晩鐘」           
 

三井寺金堂
 再び名神高速に乗り、大津インターで降りて少し北上、天台寺門宗総本山の三井寺に来ました。正式には長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。お話を伺ったのは執事の梅村敏明さんです。 まずはお寺の由緒から。
「琵琶湖西岸を治めていた大友氏の氏寺として、686年に創建されました。その後は少し荒廃し、智証大師円珍というお坊さんが復興しました」


三井の晩鐘を突く稲野一美
 金堂の横にある鐘が、近江八景の一つ「三井の晩鐘」です。
「鐘は古鐘と新鐘の二つがあります。比叡山延暦寺と長等山園城寺は同じ天台のお寺でありながら、一時期、骨肉相争う戦いをしていて、延暦寺から武蔵坊弁慶率いる山法師が焼き討ちに来た際、戦利品として鐘を延暦寺まで引きずっていきました。しかし、撞(つ)いてみると『ゴーン』ではなく『イノー=帰(い)のう』と鳴った。園城寺に帰りたいのかと弁慶が怒り、谷底に放り投げたらひびが入ったといわれています。延暦寺からここへ鐘が戻った時に撞けなかったので、全く同じものを慶長7(1602)年に模鋳したのが現在の三井の晩鐘です」
 何時に鳴るのでしょうか。
「本来は暮れ六つ(夕方)の鐘ですが、あまりにも鐘の音が美しいので、一般の参拝者でも撞けるようにしてほしいと大津市からお話があったようで、それ以降、誰でも撞けるようになりました」


  三井寺
 
 
■拝観時間/8:00〜17:00
 ■拝観料/大人500 円、中学生300 円、小学生200 円
 ■TEL /077-522-2238

 

 *写真は「弁慶の引き摺り鐘」
   鳴らすことはできないが展示されている


   大津事件跡の碑
 

大津事件跡

 JR大津駅から北へ徒歩10分ほど、街道の面影を残す旧東海道の一角に「此附近露國皇太子遭難之地」と刻まれた大津事件跡の碑があります。大津事件は、明治24(1891)年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライに、警備中の津田三蔵巡査が切りつけてけがを負わせたという国際的な事件です。明治政府は大国ロシアの怒りを買わないよう、大審院(今の最高裁)に死刑にするよう圧力をかけましたが、大審院長の児島惟謙(これかた)は屈せず、厳格に法律を適用させて無期徒刑(無期懲役)にしました。司法権の独立を守った歴史的な判決でした。


   津田三蔵の謎
 
大津事件のあった旧東海道
 三井寺北側にある大津市歴史博物館に来ました。学芸員で大津事件の研究家の樋爪修さんに、大津事件についてお伺いしました。まずは襲われた時の状況から。
「滋賀県庁で昼食を終えたロシア皇太子一行が、東海道の京町通を人力車で京都へ帰ろうとしていましたが、その道を警備していたのが津田三蔵でした。狭い道の両側に群衆がひしめき、巡査が向かい合わせで敬礼をしながら警備していて、前をニコライが通ったところで、津田は持っていたサーベルで切りつけました。人力車から飛び降りて逃げたニコライを津田は追いかけましたが、人力車の車夫に取り押さえられました」



旧東海道に残る昔ながらの家
 なぜ切りつけたのでしょう。
「一つは、ロシアが日本を攻める偵察にニコライが来たという疑いがあった。二つめは、日本に来るなら東京で明治天皇にあいさつすべきなのに、ニコライは長崎から神戸、京都へと来た。三つめは、不平等な『樺太千島交換条約』をロシアに結ばされているのに、日本が皇太子を国賓として歓迎していること。そして四つめは、ロシア皇太子と一緒に西郷隆盛が帰ってくるといううわさがあったことです。西南戦争で死んだはずの隆盛はロシアにおり、帰国して西南戦争で与えられた勲章を取り上げるといううわさが新聞にまで載りました。津田は西南戦争で勲7等と100円の報奨金をもらっていて、その名誉が取り上げられると思ったようです」



   大津市歴史博物館
 
  ■開館時間/9:00〜17:00
  ■休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)、
         祝日の翌日(土日は開館)、年末年始
  ■入館料/大人210 円、高校大学生150 円、
         小中学生100 円
         *企画展は別料金


 

新しく名神高速道路に開通した草津田上インターの周辺、そして大津インターの周辺、どこもすごくいいところでした。休日のドライブにお薦めです。