JR大和路線、国道25号、大和川

(奈良県王寺町)

亀の瀬を物流拠点に
舟が行き交った大和川
〜大阪と奈良を結んだ舟運の歴史〜
2008年12月20日放送

大阪と奈良の府県境にある亀の瀬は、大和川の川幅が狭く、ごつごつした岩が点在する渓谷で、地すべり地区としてよく知られています。川の南側には国道25号とJR大和路線があり、大阪と奈良を結ぶ交通の大動脈でもありますが、江戸時代にもここは交通の要衝でした。大和川で盛んに行われていた舟運。当時、この亀の瀬周辺は、ある重要なポイントになっていたようです。。

亀の瀬で荷を積み替えた理由

 亀の瀬橋から400mほど上流。ここは大和川の舟運にとって、どんな場所だったのでしょう。王寺町教育委員会の岡島永昌さんにお話を伺いました。
岡島 大和川の舟運は江戸時代初期から始まり、大阪の城下町からここまで大和川をさかのぼって荷物を運んでいました。ここから上流は、運ぶ方法が舟と陸路に分かれ、舟で運ぶ場合は陸上を少し上っていき、そこでまた舟に積み込みました。陸路を使う場合は、ここから牛や馬で運びました。

 舟で運ぶのに、一度積み替えたのは何故でしょう。
岡島 昔、この辺りには「銚子口」という滝があり、舟で行けなかったからです。滝の落差は1〜2m程度だったと思われ、明治時代には堰(せき)で滝の落差をなくして通す装置が造られました。ただ、今は全く形跡が残っていません。昭和7年の大きな地すべりか、その復旧工事でなくなったものと思われます。

 大阪からここまで、何を運んできたのでしょう。
岡島 イワシを干して作る干鰯(ほしか)や、なたね油を搾った後の油かすなど、奈良の農家が使う肥料がほとんどです。運んだのは「剣先船」という底が平らで先がとがっている舟で、大きさは長さ約17・5m、幅約1・9mでした。民間業者がお上の許しを得て運航していて、古剣先船と新剣先船の二つのグループがあり、計311隻が行き来していました。


岡島さんと

 ここから上流は、どんな舟を使っていたのでしょう。
岡島 「魚梁(やな)船」という剣先船より一回り小さな、9枚のむしろを帆に使う舟です。魚梁船は、今の三郷町にいた安村喜右衛門という人だけが幕府より権利を与えられ、「問屋」を置いてそこを中心に荷物を運んでいました。問屋と言っても、物を仕入れて卸す問屋ではなく、荷物の運賃だけでもうける「荷継問屋」です。魚梁船は、ここから1〜2kmほど上流にある大正橋下流の浜から出て、今の天理市の嘉幡(かばた)や田原本町の今里、大和郡山市の筒井の辺りまで行っていましたが、今里が
一番栄えていました。

人も運んだ明治時代

 陸路で運ぶ業者についても伺いました。
岡島 今の王寺町にあった藤井村の庄兵衛が、「藤井問屋」を営んでいました。「仲仕(なかし)」と呼ばれる人が荷物を揚げ降ろしし、「駄賃取り」と呼ばれる人が陸路で運びましたが、駄賃取りは従業員ではなく、農家が農業の合間に副収入を得るため行っていました。今の柏原市の青谷、峠、国分にも問屋があり、荷物の運び先に応じて使い分けられていたようです。全部で1200人ほどの駄賃取りがいました。


龍王社

 当時の物は何か残っているのでしょうか
岡島 庄兵衛の子孫である池内家に、荷物の送り状などに押した印鑑がたくさん残っています。舟は残っていませんが、解体された舟の板材が蔵の壁の下の方に「腰板」として張りつけられて残っている所もあります。ただ、建て替えで年々減っています。また、亀の瀬に「龍王社」という小さなほこらがあります。浜の神様として祭られていたと考えられ、剣先船に乗っていた船人たちが寄付した灯ろうが残っていて、「剣先船 船人中」と刻まれています。

 剣先船はいつごろから始まったのでしょう。
岡島 古剣先船は江戸時代の初めから、新剣先船は延宝3(1675)年からです。大和川の付け替え前は、今の柏原市から北西方向に行って淀川方面に出られましたが、付け替え後はいったん大阪湾に出てから、木津川を上って大阪に荷物を運びました。その分、何日か余分にかかるようになったようです。

 大和川の舟運は、時代とともに変化したようです。
岡島 江戸時代は荷物だけを運んでいましたが、明治になると人も乗せました。奈良県から大阪の心斎橋辺りまで、13時間ぐらいかかったようです。大和川は交通の大動脈として重要で、舟運は陸路で運ぶより一度にたくさんの荷物が運べるため便利で、誰もが慣れ親しんだものだったのでしょう。しかし、明治25年に湊町(現JR難波駅)〜奈良間に鉄道が開通すると、舟運は衰えていきました。

 

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今日の姿からは想像もつかない、舟運という重要な役割を担っていた大和川。現在では、さまざまな面で暮らしに欠かせない存在ですが、将来はまた違った役割が求められるようになるのでしょうか。間もなく今年も終わり。1年の締めくくりとして、もう一度川の大切さを考えたいと思える取材でした。