全長7mの「大和川筋図
巻」

7mの大絵巻が物語る
大和川の歴史ドキュメント
〜堺市博物館のスポット展示「新大和川」〜
2008年12月6日放送

色づく木々が美しい堺市の大仙公園には、中央図書館や自転車博物館、日本庭園や茶室などがありますが、今回のお目当ては堺市博物館。ここでは堺の歴史や美術、考古学や民俗学的な資料が保存され、興味深い展示が行われていますが、今、開催中なのはスポット展示「新大和川」です。新大和川という言葉からは、1704年の付け替え後の大和川が浮かんできますが、果してどんな内容なのでしょうか。

江戸期の土木技術や舟運も見える

 写真パネルや絵巻などが並ぶスポット展示コーナーで、ひときわ目立つ巨大な資料。これは何なのでしょう。学芸員の矢内一磨さんに伺いました。
矢内 メイン資料の「大和川筋図巻」です。7mもある大きな絵巻物で、普段は常設展で一部を展示していますが、今はすべてをご覧いただけます。明和7(1770)年以降の江戸時代に描かれたものと推定でき、今の奈良県三郷町立野北・立野南から大和川の河口まで描かれていて、柏原市の石川合流点周辺には新しく設置されたしっかりした堤防が黒く描かれ、ここが付け替え地点であることが分かります。

 そこに小さな鳥居のような印があります。
矢内 樋門です。これを開け閉めして、田んぼの方に水を流していた施設ですね。他に、水の勢いを制御するために打たれた杭の絵や「船着場」の文字もあり、江戸時代の土木技術や船が往来していたことなど、色々な情報を読み取ることができます。

 これは、誰がどういう目的で作ったのでしょう。
矢内 二つの考え方があり、一つは、大坂代官が兼務していた堤奉行の関係者が、広域の堤防を支配するために作り、その下の「堤方役所」が持っていたという考え。もう一つは、新大和川の中や河口の新田を支配していた堺奉行下の「川方役所」が作り、河川管理に使っていたという考えです。

 他の展示物についても説明していただきました。
矢内 木造の橋を大正時代に鉄橋に架け替えた時、その廃材で作った記念品のお盆があります。後面には、「大和川鉄橋の架け替え記念」と書かれています。「大和川舟運図」は、柏原より上流の大和川が描かれ、「船役場」などもあって舟運が盛んだった様子が分かる掛け軸です。また、「大和川沿村支配絵図」は、堺奉行の管轄は赤色、大坂町奉行が黄土色という具合に、大和川流域の管理の区分を色で示しています。

 模型や橋の絵図、文字資料もあります。
矢内 模型は藤井寺市周辺の発掘成果に基づいて平成時代に作られたもので、江戸時代と現在の堤防の大きさの違いが分かります。橋の絵図には、紀州徳川家の参勤交代で大名行列が大和橋を渡って帰っていく様子が細かく描かれていて、馬や人が相当乗れるしっかりした橋だったことが分かります。その横の文書は、洪水でよく流された大和橋の再架橋を、自分のところに請け負わせてほしいと願い出る「請負願い」です。

小学生の地域学習にも貢献

 2004年度から始まったスポット展示は、堺の小学生の勉強にも役立っているとのこと。詳細を堺市博物館の加賀谷弘之さんに伺いました
加賀谷 堺では小学4年の社会科で大和川の付け替えについて学習していますが、その際にスポット展示を見て学習を深めてもらうべく、学習内容と展示をリンクさせ、教室での学習における疑問についても博物館ですべて答えるよう対応しています。また、見学前に先生と学芸員との打合せも十分に行っています。

 展示を見た子供たちは、どんな感想を残してくれるのでしょうか。
加賀谷 副読本の「私たちのまち堺」に載っているのと同じものが目の前にあって感動した、学芸員の話を聞いてよく分かった、と言ってくれます。なかには、次の日曜日に家族で博物館を訪れ、もう一度見にきたよとにこっとしてくれる子供さんもいます。大和川による堺への影響は非常に大きく、付け替えについての学習は、先人たちの願いや働きかけの学習、また環境学習という点でも意義が大きいと思います。

 今回は加賀谷さんのアイデアが生かされています。
加賀谷 子供たちには楽しみながら学んでほしいと思い、展示期間中に小中学生対象の大和川クイズ大会を2回計画しました。展示を見ながら10問程度の問題を解いていくというもので、「基本コース」と「チャレンジコース」から選択できます。どちらにも参加賞と満点賞を用意していますし、そんなに難しくないので、奮って参加してほしいと思っています。

 ■スポット展示「新大和川」(堺市博物館
 開催期間/2月1日まで
 開館時間/9:30〜17:15(入館は16:30まで)
 休館日/月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日


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矢内さん

加賀谷さん

大和川付け替えで港が土砂で埋まり、堺の町が衰えたという考え方があります。それに対し、付け替え前の元禄時代、井原西鶴が既に堺の衰えを書いていることや、運ばれた土砂で新田が多く出来るなどいいこともあった点を考えると、決してすべてがマイナスではなかったのだと、学芸員の矢内さんは説明してくれました。