「八尾の渡来文化」の展示より

渡来文化がやってきた
弥生〜古墳時代の大和川
〜特別展「八尾の渡来文化」〜
2008年11月15日放送

大和川が流れる大阪府八尾市に来ました。古代、外国から船でやって来た人々は、大阪の難波津で舟に乗り換え、付け替え前の大和川を上って大和へと向かいました。遣隋使の小野妹子と一緒に来日した裴世清(はいせいせい)もこうしたルートを通りましたが、実はそれよりも前の時代から、色々な渡来人がここ八尾にやってきているようです。今回は八尾市立歴史民俗資料館の特別展「八尾の渡来文化」を訪ねました。

湖だった大阪東部

 特別展は章ごとに分けられ、「第1章 渡来人の土器」のコーナーでは、まず地図が展示されています。学芸員の樋口めぐみさんに、お話を伺いました。
樋口 これは大阪の地図ですが、昔は河内湖という湖が生駒山脈と大阪湾の間の河内平野に広がっていました。河内湖の北側には淀川が流れ、南側には今と少し流れの違う大和川やそこから枝分かれしたたくさんの川が流れています。河内湖は、川が運んでくる土砂で少しずつ埋まっていきました。

 川沿いを中心として、地図に印が付いています。
樋口 渡来人が持ってきた韓式系土器の出てきた遺跡を表しています。朝鮮半島から船で大阪湾まで来て、河内湖から川を伝って大和に向かう場合、所々で川沿いに停泊して休憩し、気に入った土地に住んだりしたことも考えられますので、川沿いから多く出てくる傾向があります。一番古い土器では、弥生時代終わりごろにあたる2世紀末の物が見つかっています。


韓式系土器

 赤っぽい土器とグレーっぽい土器があります。
樋口 赤いのは800℃ぐらいの温度で焼く「軟質土器」で、たき火のように野焼きします。一方、グレーの方は陶器のように窯を使って高温で硬く焼く「陶質土器」です。軟質の土器は日本でも縄文時代からずっと作られ、古墳時代の土師器(はじき)も野焼きでした。

 韓式系土器の特徴は、どんなところでしょう。
樋口 それまで日本で作っていた土師器と、まずは形が違います。また、表面に模様が付いているのも特徴です。展示している土器にも、縄目や鳥の足のような模様がありますが、このように表面に模様を付けることは、日本の土師器には見られないことです。

 渡来人の進んだ技術と大和川が、直接結びついているようなものは見つかっているのでしょうか。
樋口 韓式系土器が多く出ている久宝寺遺跡では、川をせき止める堰(せき)を造っています。また、その隣の亀井遺跡では、堤防を最新の技術で造っていたりしており、周辺にも渡来人の痕跡が残っています。

馬も、鉄も、お墓も…


八尾南遺跡から出土した
木製のくら

 次のコーナーは「第2章 馬を飼う」です。どうやら馬も渡来人がもたらしたようです。
樋口 今では身近な動物の馬も、実は古墳時代に日本にやってきた新しい動物です。中国の歴史書「魏志倭人伝」にも、卑弥呼の時代に牛馬がいないことが記述されていますし、馬の骨が出土するのも5世紀ぐらいになってからです。八尾南遺跡の井戸からは木製のくらが見つかり、また、馬が走り回っていたのか地面がぼこぼこし、さくのような物で区切られていたのか柱が立っていたような遺構も見つかっています。

 次は、「第3章 鉄を鍛(う)つ」とあります。
樋口 鉄鍛冶も古墳時代半ばに盛んになった技術です。八尾では遺構は見つかっていませんが、鉄鍛冶の道具や鉄を作る時に出るくずの「鉄滓(てっさい)」などが見つかっています。展示物は柏原市の大県(おおがた)遺跡の出土品で、ここは6世紀後半代に大規模な鉄鍛冶を行った集落です。韓式系土器がたくさん出ており、集落がつくられる時に渡来人が関わり、鉄鍛冶も渡来人の指導を受けて盛んになったと思われます。

 最後は「第4章 新しい墓」。
樋口  新形態の墓「横穴式石室」が、渡来人により畿内に伝わったのは5世紀末ごろです。穴を掘って部屋を造り、ひつぎを埋めて上からふたをし、もう2度と開けられないというそれまでの日本の墓に対し、古墳の横に入り口を付け、通路とその奥に埋葬する部屋を造るため、入り口のふたを開ければまた入れるのが特徴です。初期の横穴式石室は、八尾では郡川(こおりがわ)東塚古墳と郡川西塚古墳で見つかっています。

 副葬品などが展示されています。
樋口 柏原市にある高井田山古墳の出土品です。特に珍しいのはネックレス部分の「金層ガラス玉」で、ガラスの間に金ぱくをはさみ込んでいます。ローマで生まれた技術がシルクロードを通って伝わったようで、百済で出ることが多いため、百済と関係の深い人が葬られたのではないかと考えられます。

 

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お話を伺った樋口さん(右)

展示を見て、昔から川の近くには人々がたくさん集まり、川を中心とした暮らしがあったことを実感しました。また、日本発祥だと信じていたものの中に、実は外国から来たものが多くあることを知って驚きました。それらは渡来人が河内湖や大和川を上りながら伝えてくれ、八尾はその玄関口の一つになっていたのです。