「新田開発と松原」の展示より

知恵と工夫で新田開発
大和川付け替え後の松原
〜特別展「新田開発と松原」〜
2008年11月8日放送

大阪府松原市は北部に大和川、東部に東除(ひがしよけ)川、西部には西除(にしよけ)川が流れていますが、1704年の付け替え以前はここに大和川はありませんでした。水田などをつぶして新しい川筋を造ったのですが、一方で新田開発も行われたようです。付け替えで松原がどう変わったのか。それを知るため、松原市民ふるさとぴあプラザで開催中の「新田開発と松原〜大和川付け替え後の様子」をのぞきました。

北部の村々が付け替えに反対

 展示を見ながら、松原市文化情報振興事業団の学芸員、西田敬之(たかし)さんにお話を伺いました。松原は付け替えをどう考えていたのでしょう。
西田 新しい川により田んぼがつぶされることや新たな洪水発生の心配から、全27カ村のうち北部の村を中心に付け替えには反対していました。

 土地が減ったのに、どこで新田開発したのでしょう。
西田 当時、南から真っすぐ北に流れていた西除川は、そのままだと付け替えられた大和川の堤に突き当たってしまいました。大和川の方が高い所を流れていたため合流させられなかったのです。そこで、西除川の流れを西に振り、堺の方で大和川に合流させました。現在、高木橋辺りから大きく西に曲がっているのはそのためです。その旧流路跡に開発されたのが「富田(とんだ)新田」で、大和川付け替えでつぶされた城連寺村の田んぼの替え地として使われました。そのことは展示中の「城連寺村記録」や絵図に書かれています。城連寺村は自分たちの土地がなくなるため付け替えに敏感で、細かに記録を取っていたのです。

 展示の中に、「河内国丹北郡富田新田検地帳」という史料がありました。
西田 開発された新田は「鍬下年季(くわしたねんき)3年」といわれる年貢の免除期間があり、それが終わって年貢を取る前段階に、土地を調べる検地が行われますが、その時の検地帳です。富田新田は今年で検地300年となります。

 西除川の跡地以外でも新田開発されたとのこと。
西田 田んぼがつぶされたため使わなくなった用水池も開発されました。例えば、三宅村北部の西の端と東の端にあった野中池と寺ケ池というため池です。今回はそれを示す絵図や古文書を展示していますが、絵図は土地を種類で色分けしています。田畑の色、道や堤の色、ため池や水路など水に関する所の色です。田んぼや水路は非常に重要な部分のため、はっきり分かるように色を着けたのだと思います。

新しい川筋にも新田を開発

 新田は意外な所でも開発されたようです。
西田 松原は高い南から低い北へと川や水路が流れているため、そのままだと大和川の堤にぶつかります。うまく大和川に合流させるため、大和川の南側に落堀(おちぼり)川を造り、そこにいったん川や水路を落とし、高さがあうところまで西へ水を持っていって大和川に合流させました。その落堀川や新大和川の堤沿い(河川敷)にも、新田が開発されたのです。

 落堀川沿いには、どんな新田が造られたのでしょう。
西田 「丑改(ちゅうかい)新田」は城連寺村から堺の浅香山にかけて開発された新田ですが、城連寺村以外の者も開発を申し出たため、自らの損益に関わる城連寺村としては他の開発者が入ってくることが「口惜しい」と考えました。付け替えで田地を取られ、人も減って余裕のない城連寺村でしたが、庄屋などがお金を出し合い、地代金を払って開発に踏み切りました。

 もう一つ「万屋(よろずや)新田」も造られました。
西田 大阪
の商人、万屋善兵衛が開発した新田です。東除川は落堀川に架けられた石樋の上を流れ、交差する形で大和川に直接流れ込んでいましたが、1716年の洪水で石樋が流されました。費用の問題から石樋を再建せずに落堀川と東除川を合流させたため、東除川以西の落堀川は水量が減って両岸が余ってきました。そこに開発されたのが、この万屋新田です。

 他とは事情の異なる新田もあったようです。
西田 松原での新田の多くは村が開発しましたが、油上村の土橋弥五郎という個人が開発した新田もあります。ただし松原ではなく、大和川が運ぶ土砂により堺の河口部分に出来た土地を開発しました。最初は別人により始められたのですが、土橋弥五郎と大阪の商人である加賀屋甚兵衛が開発を進め、南側を土橋弥五郎が担当して「南嶋新田」を造りました。その時、安全祈願のために建てたのが堺市堺区南島町にある月洲神社です。土橋弥五郎はその後も新田を広げ、「弥三次郎新田」や「平田新田」の開発にも携わりました。

 

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西田さんと


大和川付け替えに伴う松原での新田開発について、展示を通してその歴史を知ることができました。色々な問題があり、また度々争ったりしながらも、それらを人々の知恵で解決していって今日につながっていることを、改めて感じました。これからの歴史を作るのは私たち。そのことを思うと責任重大です。