李熙連伊さん(右)に
教えられながら糸紡ぎ体験

大和川付け替えが導いた
河内木綿とあい染の文化
八尾市立歴史民俗資料館で特別展示
2007年11月17日放送

文化の日がある11月、関西の文化施設では、「関西文化の日」として月内の一定期間、美術館や博物館などが無料になります。そこで番組でも、3回にわたってミュージアムを巡り、学問や芸術に親しむことにしました。今週は、八尾市立歴史民俗資料館で開催中の特別展示「河内木綿〜歴史と資料〜」を訪れます。キッズリポーターの奥中健太(小5)君と眞壁友里(小5)さんも一緒です。

河内の農民は商売上手!?

 大阪府八尾市と奈良県平群町の境界にそびえる高安山のふもとにある八尾市立歴史民俗資料館。展示名にある「河内木綿」と大和川の関係は、以前に訪れた柏原市立歴史資料館で知りました。
眞壁 はい、覚えています。
奥中 昔の大和川があったところに新田が出来て、河内木綿が栽培されていた。

 よく覚えていました。さらに詳しいことを、学芸員の李熙連伊(イ・ヒヨンイ)さんに伺いました。
 1704年に大和川が付け替えられると、元々、川だったところの水量がぐっと減って陸地になり、川底だったところで綿栽培が盛んに行われるようになりました。今回は、河内木綿商の古文書などを展示し、そうした河内木綿の歴史を分析しています。

 生産された河内木綿は、どう流通したのでしょう。
 地元商人が、八尾組、山根(やまのねき)組、久宝寺組の三つに分かれて扱いました。摘み取った綿を売る、糸に紡いで売る、布に織ってから売る場合があり、暖かい地域で出来る綿には、当時、関東で栽培できる品種がまだなく、西日本の綿が全国にどんどん売れました。河内の農民は才覚があり、綿を売ってお金をいっぱい貯め、わざわざ堂島でお米を買って年貢を納めるほどでした。生活が豊かだったことが伺えます。

 展示されている河内木綿を見せていただきました。
 今回が初出品資料と言っていいのが、「節句幟(せっくのぼり)」です。どれも長さが10m近くありますが、あの図柄、何か分かりますか?
眞壁 人の顔は分かるけど、下の方は分からない。
奥中 強そう。
 真ん中の強そうな男の人は素戔鳴(すさのお)、その下のいくつもの頭を持つ竜のようなものは八岐大蛇(やまたのおろち)です。神話に出てきますね。八尾周辺には、こういった幟を製作する集団がおり、町人でも比較的裕福な人たちが、オーダーメイドで作ってもらっていました。


あい染された河内木綿

河内木綿作りを体験

 幟の隣には、名字などが入った鮮やかなあい染の、のれんのようなものがあります。
 油単(ゆたん)といって、長持(ながもち)や唐櫃(からびつ)などのカバーに使いました。元々、1枚の紙に油を引き、水やほこりを弾くようにしたものだったので、こういう名前がつきました。あい染については、お年寄りの方から、村に1軒か2軒、紺屋(こうや)があったと聞いています。紺屋にも技術的に段階があり、技術的に一番簡単な糸染紺屋は村に1〜2軒あったと思われます。こうした文様を付ける「型染」は、次の段階の技術を持つ紺屋がしていました。そうした紺屋は、色々な家紋の型紙を持っていて、婚礼用のものには、その家の家紋を付けていました。

 常設展示にも、河内木綿コーナーがあります。
 普段は「大和川流域と高安山」というテーマで常設展をしており、「掘り起こされた八尾の歴史」「写真と資料で見る八尾の風景」「大和川の付け替えと河内木綿」の3コーナーに分かれています。八尾の小学4年生は、郷土学習で大和川の付け替えと河内木綿について学びますが、常設展でもそうしたことが学べるようにしています。

 2階には、河内木綿体験コーナーもあります。
 綿の種を取るための「綿繰り機」や、綿から糸を紡ぐ「糸車」などがあり、来館者に自由に体験していただけるようにしています。もちろん、これから体験していただくことも可能です。
奥中&眞壁 やってみたい。

 実綿(みわた)から種を取り除く綿繰り機は、ハンドルを外側に回すだけで、面白いほど種が取れます。2人とも進んでいます。
奥中 やりやすくて、ものすごく楽しいです。
眞壁 すごく楽しいです。なんかこんな仕事だったら、ずっとやっていられそう(笑)。
 ハンドルを回すだけなので、幼稚園の年長ぐらいから大人まで、みんな楽しんで体験をしているようです。

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キッズたちも体験

大和川付け替えが生んだ河内木綿について、説明や体験で理解した後、資料館から2kmほど西を流れる恩智川を歩きました。大和川から分かれていたこの川も、付け替え後は支流ではなくなり、淀川水系寝屋川に合流しています。周辺にはマンションや工場が建ち並び、約300 年を経た現代の姿を見せています。