中甚兵衛像(大阪府柏原市)

キッズリポーター登場!
大和川付け替えを研究
〜昔の人々の苦労を知って〜
2007年8月18日放送

夏休みも、あと2週間。そろそろ宿題の進み具合が気になる時期。そこで今回は、3人のキッズリポーターが登場し、大和川をテーマにした自由研究をすることになりました。JR高井田駅からよく見える大和川は、太陽の光を受けてきらきら輝きながら静かに流れています。井阪若菜(中2)さん、奥中健太(小5)君、眞壁友里(小5)さんと一緒にこれから向かうのは、柏原市立歴史資料館です。

付け替え決定までに50年

 大和川の付け替えをテーマに、柏原市立歴史資料館の学芸員、安村俊史さんに教えていだたきました。大和川に付け替えの歴史があることを、奥中君と眞壁さんは学校で習って知っていました。

井阪 なぜ付け替えが行われたのですか?
安村 大阪平野は、6千年ぐらい前から淀川と大和川が土砂を運んで出来上がったんですが、大和川がどんどん土砂を運んだために、大雨が降ると水がうまく流れず、洪水を何度も起こしました。それで困った中甚兵衛を中心とする農民たちが、幕府に付け替えてくださいと願い出る運動を始めたんです。付け替えは、それから50年ぐらいして行われました。


リポートの様子

眞壁 どうして50年もかかったんですか?
安村 一番大きな理由は、付け替えに反対する人たちがたくさんいたから。どうして反対したと思う?
奥中 付け替え先が、また洪水になるとだめだから。
安村 よく知ってるね。田んぼや家をつぶさないと新しい川は出来ませんが、新しい川を造る所に住んでいる人は、別に洪水で困っているわけじゃないのに、田んぼや家がなくなってしまうので反対しました。これが一番大きな理由。それと、今、言ってくれたように、新しい川が出来ることで、それまでなかった洪水が起こってしまったり、それまで自由に通れた道が通れなくなったりと、いっぱい困ったことが起こるんですね。コースを考えるたびに反対する人たちが多くいるので、幕府は付け替えをしないという結論を出して、河村瑞賢という人に工事を任せました。大和川は淀川に流れ込んでいたんですけど、淀川の工事をすれば大和川の洪水も起こらなくなると考え、工事をしましたが、洪水がなくならなかったため、1703年、今から304年前に、大和川の付け替えが決まりました。

眞壁 工事中に亡くなった人はいないんですか?
安村 詳しい記録がないんですが、きっと居るでしょうね。夏の暑い時も、一生懸命働いていたんでね。

工事の工夫と
付け替え後の苦労

奥中 付け替え工事が始まったのは、いつですか?
安村 付け替えが決まった翌年の1704年2月から始まり、8ヵ月で終わりました。早く出来た理由の一つは、色々な藩が分担して工事をしたことです。隣を工事している藩に負けたくない、早く終わらせればお金も安く済むと、一生懸命に工事をしたからです。もう一つは、川底をほとんど掘らず、余っている土を盛り上げて造ったからです。土を掘ることは大変で、人もお金も時間も掛かります。工事には今のお金で140億円ぐらいかかり、延べ270〜280万人ぐらい(1日約1万人)が働きました。

 新しい川のルートは、どう決めたと思う?
奥中 村や国で相談して決めた。
眞壁 反対する人が少ない所にした。
安村 天王寺の方や住吉大社の近くなど、候補は色々ありましたが、今のルートになったのは、たぶん、できるだけ川底を掘らずに海までいけたからでしょう。それと、反対する村などをできるだけ避けたのでしょう。それでも、二つの村がつぶれました。

 最後は、付け替え後の生活について
安村 川だった所は新田開発されましたが、砂地で水が張れず、ほとんど畑になりました。

井阪 その畑で何を作っていたのですか?
安村 一番多かったのは綿で、河内木綿として全国で売られました。油を取るためナタネも作られ、また綿の実からも油を取って、人々は生活をしました。

眞壁 つぶれた二つの村の人たちは、どこに移り住んだのですか?
安村 村の近くに別の土地をもらって移ったりしましたが、一つの村が大和川の南北に分かれてしまい、一緒に働いたりお祭りをしたりすることができなくなりました。また、田んぼをなくした人は、新しく出来た田んぼをもらいましたが、ずっと遠い所まで歩いていかなければならず、 米作りができずに田んぼを売ってしまった人もたくさんいたみたいです。

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安村さん(右)と

3人は、大和川付け替えについて研究し、それぞれに感想を持ったようです。
井阪 何気なく見ている大和川は、色々な人の苦労の下に出来ているのだと感じました。
奥中 昔から人の苦労があって出来た大和川だから、もっとじっくり見ていきたいです。
眞壁 大和川を見る目が変わったし、知らないことをいっぱい知れて良かったです。