鴻池新田で
綿が作られた真相
〜国史跡、重要文化財の鴻池新田会所〜
2007年5月12日放送

東大阪市のJR学研都市線・鴻池新田駅の少し北側に流れているのは寝屋川。淀川水系のこの川は、大和川と深い関係にあります。1704年に大和川が付け替えられるまで、大和川は大阪湾に直接注いでいたのではなく、大阪府柏原市から向きを北西方向に変えて、この寝屋川につながっていました。そして、付け替え後に元々川だったところに出来たのが、鴻池新田なのです。

鴻池新田会所は、江戸時代に豪商・鴻池家が開発した新田の管理・運営を行った施設です。小作農民から小作料と肥料代を徴収したり、幕府への年貢を上納したり、農地や家屋の管理、補修そしたりしていました。その鴻池新田は鴻池家の3代目である鴻池善右衛門宗利と、その子・善次郎が、旧大和川の川筋である玉櫛川や久宝寺川の川だった部分や堤防を中心に開発をしました。元々、伊丹で清酒を醸造したのが鴻池家の商売の始まりで、その後は、大阪と江戸を結ぶ海運や両替商などで成功し、やがて鴻池財閥となって、三和銀行、三菱東京UFJ銀行へとつながります。


鴻池新田では、綿(わた)がよく作られました。それは、一般的に言われるように、新田は砂地が多くて米作りに向かなかったという理由からではなく、綿の方が儲かったからだと考えられています。河内の農民は、田んぼでも綿を作る「田潟綿作」をしていたため、納める米を堂島で買ってきて年貢としたという奇妙な現象もありました。また、小作人すら人を雇い、綿の加工や野良仕事をさせていて、今日ある「ものづくりの東大阪」の原型がそこにありました。
大変に興味深いお話を聞かせてくれたのは、 鴻池新田会所・学芸員の井上伸一さん 。