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毎回、大阪を拠点に活動しているNPO法人やNGO、ボランティア団体、そして大阪のいろいろな地域で活躍している方やその地域の活動内容を通して、大阪の「ひと」や「まち」の魅力を発見していきます。
たくさんの人に知ってほしい大阪を魅力いっぱい、情報満載でご紹介していきますので、みなさんご期待ください。

2006年11月4(土)放送

大阪の繁栄に尽くした偉大な商人
淀屋の本当の歴史を伝える
〜『淀屋研究会』〜

今回は、『淀屋研究会』の活動をご紹介します。淀屋といえば、米市場や淀屋橋で知られる、大阪を代表する豪商です。特に5代目の辰五郎(たつごろう)は有名で、その豪遊ぶりが、近松門左衛門の作品にも描かれていたほどです。でも、まだまだ、淀屋ついて知られていないこと、分からないことが少なくありません。その淀屋の姿を知ってもらおうと活動をされてるのが、『淀屋研究会』です。代表の伊藤博章(いとう ひろあき)さんにお話を伺います。伊藤さんは大阪駅前第3ビルにある鳥取県倉吉市の大阪事務所の所長もされています。



●インタビュー前半

藤原:鳥取県の倉吉市と大阪の豪商・淀屋とは、どんな関係なのでしょうか?
伊藤:豪商の淀屋は、5代目で幕府につぶされたんですが、その前に、4代目はすでに幕府に狙われていることを覚り、倉吉で暖簾をつないでいたんです。そういうことから、倉吉と大阪との関係ができたと思います。

藤原:伊藤さんは、大阪で倉吉市をPRするというお仕事の一つとして、『淀屋研究会』の活動されているのですか?
伊藤:いいえ。仕事とは別にプライベートでしています。大阪のみなさんに淀屋をもっと知っていただきたいという思いから、また倉吉と関係もあるということでボランティアで始めたのが最初です。

藤原:大阪のために何かしたいという思いもあるということですが、まずどんなことから始められたのでしょうか?
伊藤:倉吉に牧田淀屋家の建物があるのですが、それが大変古くなって、存続も危ないということを耳にしたので、署名を集めたり、募金を募って倉吉市の方にお渡ししたり、そういう運動から最初は入りました。また、淀屋の研究に関しては、日本で一番詳しいと言われる新山通江(にいやま みちえ)先生にお願いして、大阪のいろいろなところで、淀屋の真実について講演をしていただきました。

藤原:それがいつ頃の話ですか?
伊藤:一昨年ぐらいにスタートして、昨年にかけて行いました。

藤原:今年に入ってからの動きは、どんな感じですか?
伊藤:講演などで、これまでは“淀屋を検証する”といったことを進めてきたのですが、大阪の、特に船場でも、淀屋をご存じない方がたくさんいらっしゃる。これではちょっとまずいということで、淀屋の展示会をやってみようと思いました。いろいろなテーマを作って、今年は4回予定しています。2回目までが終わりまして、3回目をこれからやります。



●スタジオ

松本:鳥取県の倉吉市と淀屋には、そんな関係があったんですね。

藤原:そうなんです。鳥取県の倉吉市にも、淀屋の歴史は残っているということです。どうしても“豪遊”というイメージが強いのですが、初代と2代目の方は、本当に質素な生活をしていたそうです。これはすごく意外でした。また、5代目辰五郎の時代にお金を湯水のように使って、幕府から町人としての分限を超えたという理由で闕所(けっしょ)、つまり取りつぶされたと思っている人も多いのですが、実際は、その後も商売をしていたということなんです。淀屋の歴史、聞けば聞くほど面白くなってきました。第3回淀屋展が11月6日から17日まで、淀屋橋近くの農林中央金庫で開催されます。タイトルは“淀屋の信仰と神社・寺院 そして倉吉・八幡”です。4回目は来年の春に、“淀屋の偉業と財産、そして船場”というテーマで開催予定です。後半部分も、お聞きください。



●インタビュー後半

藤原:淀屋橋辺りはよく歩くのですが、その淀屋自体の歴史について、実はあまり詳しくないので、簡単に教えていただけませんか?
伊藤:淀屋は、ずっと昔は荘園の代官だったようです。中興の祖と言いますか、初代といわれているのは常安(じょうあん)という人で、豊臣秀吉に仕えて才覚を現して、世に出てきました。その後大阪の陣で徳川方について、そこでも才覚を現していきます。何をやったかと言いますと、人がやらないことをやったんですね。例えば、淀川を大改修したり、中之島を造ったりしました。それから、日本中のお米を集めたという、みなさんご存じの『米市(こめいち)』を作ります。他にも、海部(かいふ)堀川を掘削して、商店街などを作ったりもしました。要するに、大阪が繁栄するようなことを淀屋が真っ先にやった、ということが言えるのではないでしょうか。“个庵(こあん)”という名前でも知られている2代目の言当(げんとう)は、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)、石川丈山(いしかわ じょうざん)、沢庵和尚(たくあん おしょう)など多くの文化人たちのスポンサーにもなりました。米屋も、ものすごく繁栄させました。また、大阪ではできなかった生糸の取引も、長崎奉行に直談判して実現させ、大阪の人たちが生糸も取り扱えるようになりました。大阪のために尽くしたというのが初代と2代目ですね。ですので、私から見たら、初代と2代目は“大事業家”という感じを受けます。ところが4代目になると、幕府に「淀屋がえらい力を持ち出した、つぶさないかん」と思われます。それを覚った4代目は、遊びほうけているように見せながら、内緒で倉吉に店を作って暖簾をつなぎました。案の定、4代目が亡くなった後、5代目が二十歳ぐらいの時に、やはり贅沢すぎるなどの理由でつぶされてしまいました。ここまでは、一応みなさんがご存じの淀屋なんですね。ところが実際には、その後倉吉からもう1回大阪に戻ってきています。そして明治の直前、桜田門外の変の頃に、突如両方の店を閉鎖して、店を売ったお金を倒幕資金として朝廷に献金した。それでこの世から姿を消した、というのが本当の淀屋の姿のようです。

藤原:全く知らないことばかりですね。これから淀屋橋の周辺を歩く時は、今までと違った思いで歩けそうです。
伊藤:そうですね。ぜひ歩いてみてください。

代表
伊藤博章さん

淀屋の家紋が入った牧田家軒端瓦

第1回淀屋展の会場

第2回淀屋展には
大阪市長も来展

牧田淀屋を担った
淀屋清兵衛代々の墓
倉吉市大蓮寺(だいれんじ)

淀屋橋南詰近くに建つ
淀屋の石碑(奥)と淀屋屋敷跡(手前)

現在の淀屋橋
大阪市役所方面を望む






●スタジオ

松本:淀屋橋には今、淀屋の住居や昔あった蔵はほとんど形をとどめていないようですね。

藤原:そうなんです。残念ながら大阪に、蔵は残っていないんです。

松本:逆に倉吉には、淀屋が一時的に移っていた時の住居があるらしいですね。

藤原:残っているんですよ。ですから、倉吉の方にとっては、淀屋にはちょっとした存在価値のようなものがあると思います。反対に大阪の人は、意外とそこまでは知らないと。

松本:淀屋を知るには、大阪より倉吉へ行かなくてはいけないくらいですね。

藤原:そうですね。倉吉も“歩きたい町”に選ばれるぐらい、情緒あふれる素敵な町です。機会があれば行っていただきたいと思います。大阪の淀屋橋周辺には、昔は1000以上の蔵がずらーっと並んでいたということで、碑は今も残っています。何にでも挑戦する“起業家”としての淀屋の “心”を、大阪の人にもっと知ってもらいたい、と伊藤さんは切に願っておられます。『淀屋研究会』について、詳しくは倉吉市大阪事務所にある『淀屋研究会』までお問い合わせください。


<お問い合わせ>
倉吉市大阪事務所内『淀屋研究会』
TEL 06-6341-0170


● 取材を終えて、感じたこと

この仕事をしていると、知らないことを知る面白さがあるのですが、今回もまたそう感じました。
淀屋は大阪人らしく初めてのことをたくさん試みて成功したばかりに、幕府に睨まれるなど、辛いことも多かったでしょうが、淀屋の偉業があったからこそ、今の大阪がある!
現在と密接なつながりがある淀屋の存在を後世にも残していかなければと思います。


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