千林の九軒長屋にて 福田さん(左)今井さんと

 今回は大阪市旭区の魅力に迫ります。朝日が昇る東に位置し、旭日昇天の勢いでの発展を望んで区名が付けられた旭区は、大阪らしく歴史スポットが多いばかりか、国の天然記念物が住むとされる淀川の城北ワンドという貴重な自然もあります。そうした旭区の魅力を再発見し、地図に落とし込み、まち歩きコースを作成。実際にそれを使ってまち歩きを開催し、ボランティアでガイドまでしている皆さんがいます。詳しいお話を、旭区役所総合企画担当の今井忠司さんと、「まち歩き案内人」の福田輝雄さんに伺いました。
 今井さんによると旭区の歴史や史跡などの観光資源に、どうしたら多くの皆さんに触れていただけるかを区民が主体となって考える中で、平成18年に「旭区未来わがまちビジョン」が出来上がり、それを実現するための「旭区未来わがまちビジョン推進会議」が設置されました。その活動の中で、「旭わがまちお宝発見隊」が組織され、旭区の誇りとなるような名物・名店・名工・名所・イベントなどを「旭区ブランド」や「旭わがまちお宝」として認定。13の旭区ブランド、88の旭わがまちお宝が誕生しました。
 そして、それらを地図に落とし込んだウオーキングマップを平成21年度に作成。5ルートのマップに従ってウオーキングイベントも開催しました。さらに、その5ルートを元に、4コースのウオーキングコースを作成し、区民がボランティアガイドを買って出てウオーキングイベントを行う「旭区まち歩き再発見事業」が、平成22年度の事業として行われています。これは平成23年も継続されることになっています。


京街道の七曲がり

 まち歩きの案内人のお一人、福田さんによると、案内人は、以前に旭区の地域史づくりに携わった歴史に詳しい区民が中心で、九条下町ツアー代表の谷口靖弘大阪芸術大学短期大学部教授(05.10.1の放送で紹介)などから4回にわたって講習を受けた上で務めているそうです。福田さんにとって、旭区の一番の魅力は淀川の景観。菅原城北大橋と豊里大橋という2本の美しい斜張橋や城北ワンドなどの自然、明治時代に行われた淀川付け替えの大工事の歴史が潜む城北公園一帯は、やはり一番の自慢のようです。
 その福田さんに最初に案内されたのが、京街道の一部である「七曲がり」。豊臣秀吉が大阪城から敵陣の陣容が見えるように、わざと道を曲がりくねらせた道だそうです。また、この七曲がりのところからは、北へ約1300メートルにわたって大宮神社への参道が延びていますが、存在場所が分からなかった一の鳥居がここにあったことが、地域史づくりの調査の過程で分かりました。資料から福田さん自身がそれを発見したそうです。

強頚(こわくび)地蔵

 京街道を歩き、九軒長屋など古い町並を見ながら次に来たのは、京阪・千林駅の東側。小さなお地蔵さんがありました。強頚(こわくび)地蔵と書かれています。
 福田さんによると、仁徳天皇の時代、淀川の洪水を抑えるため茨田堤(まんだのつつみ)が造られたことが、日本書記に書かれているそうです。その際、決壊しやすいところが2カ所あり、そこに人柱が立てられたとも書かれているのですが、1カ所は枚方、もう1カ所がこの近くでした。ここで犠牲になったのは、強頚という男性。その名前がお地蔵さんに残っており、その関係性に関心が集まっています。この名がここに残っているとこも、ごく最近になって分かったことなのだそうです。

赤川廃寺の石碑 後方に日吉神社

 最後に訪ねたのは、城北公園から西へ500メートルほど、淀川の堤防の斜面にある「赤川(せきせん)廃寺」の石碑。赤川寺は、別名大金剛院と言い、旭区にあった三つの大寺院の一つで、その規模は四天王寺クラス。1229年に出来、室町時代の文安年間(1444〜48年)には、「山王宮」という近江の日吉大社の分霊を祭った社がありました。これは、当時の神仏習合の様子を表した姿でもあり、比叡山延暦寺と日吉大社、興福寺と春日大社のような関係です。なお、赤川寺は焼失してなくなりましたが、山王宮は残り、隣に場所を移し、日吉神社と名を変えて現存しています。