四代目桂米団治顕彰碑

 これまで菅(すげ)田の復活や菅製品、伊勢へと通じる 暗越(くらがりごえ)奈良街道などで町おこしをしてきた東成区ですが、もう一つ、町の宝があります。それは芸能の町だということ。今里新地の芸妓さんたちはもちろんですが、実は以前、東成区には落語家や漫才師など多くの芸人が住み、上方特有の芸を磨く拠点となっていたのです。その歴史は、掘り起こせば掘り起こすほど深く、新しいことが分かってきました。そんな活動を行っているのが、東成芸能懇話会です。
 世話人の松下和史さんによると、3年前に東成区役所が「芸能のまち東成」に興味を持っている人を公募で集めたのが始まり。それを機に、地域寄席の主催者や演芸ジャーナリスト、落語家などと接点ができ、話を聞く中、その年の秋に桂小米朝さんが五代目桂米団治を襲名することもあり、まずは四代目米団治に焦点を当てることになりました。四代目米団治は人間国宝・桂米朝さんの師匠で、東成区に住んで中濱代書事務所、今で言う行政書士事務所をしていました。そして、その体験を元に上方落語「代書(屋)」を昭和14年に創作しました。懇話会は、福岡に娘さんが住んでいることを突き止め、その証言を元に現東成区役所の敷地内に中濱代書事務所があったと特定。2009年5月、そこに顕彰碑を建立し、記念落語会や米朝さんを交えた鼎談(ていだん)などを開催しました。

「芸人の町・片江」顕彰板
この説明の下にマップ板がある

 懇話会が次に手がけたのは、五代目笑福亭松鶴が作った楽語荘の顕彰でした。五代目松鶴は、二代目笑福亭枝鶴だった昭和7年に当時の東成区片江町に引っ越し、自宅を楽語荘と名付けた上、お笑い芸人を集めて、雑誌「上方はなし」を発刊しました。それが上方落語の振興に大きく貢献、五代目米団治の代書、三代目枝鶴の「豆炭」といった、東成を舞台とした創作落語が生まれる原動力ともなりました。また、昭和20年代には、若き日の六代目松鶴、三代目(現在の)桂米朝さん、五代目桂文枝などが出入りし修行を積みました。
 楽語荘について調べていくと、漫才師の横山エンタツが住んでいた区内の場所なども分かり、懇話会のメンバーで現在は広島大学特命教授を務める高橋滋彦さんが行ってきた調査結果とあわせ、昭和4年の地図にそうした情報を落とし込んだ「芸人の町・片江」の顕彰板を設置することにし、2010年6月、笑福亭仁鶴さんにも来ていただいて実際に設置を行いました。今、こうしたものは「大阪あそ歩く」のまち歩きコースにも取り入れられているそうです。

芸人の住まいだった所には表示が
これは和多田さん宅(五代目松鶴)

 その顕彰板の前でお話を伺ったのが、懇話会のメンバーで五代目松鶴の孫、和多田収さん。和多田さんによると、片江の地名は今はなく、大今里南になっているとのこと。この顕彰板のすぐ近くに漫談家の花月亭九里丸の家があり、ぼやき漫才の元祖・都家文雄、横山エンタツ、楽語荘などが集まっていたため、これを生かそうと、昭和9年に九里丸が自宅で漫談明朗塾を開講。後に西条凡児も塾生になったそうです。
 戦後になると、6代目松鶴、五代目桂文枝、二代目笑福亭松之助さん、三代目米朝さんらが楽語荘に集まり、ほとんど東京に行ってしまってほぼ壊滅状態だった上方落語を、必死で残そうと、この地で青春を送りました。そうした芸人たちが今里に飲みに行った姿も、近辺の皆さんはよく目撃したそうです。

風月店内

 最後に行ったのは、近鉄・今里駅近くにあるお好み焼き店の風月。目を引くのは、壁一面を埋め尽くすサイン色紙の数々。芸能人がよく利用する店かと思いきや、実はここで2ヶ月に一度、「風月寄席」が行われていて、サインはそれに出た落語家のものでした。出演者を決めているのは笑福亭仁福さん。人柄が良い仁福さんを慕う落語家は多いそうで、若手から中堅、ベテランまで幅広い皆さんがここで落語をするそうです。4人がけのテーブルは八つ。いつもすぐにチケットが売り切れるそうで、残念ながら幅広い皆さんに楽しんでいただくのは難しいとのことですが、店主もおもしろい方なのでぜひお好み焼きを食べに来て下さいと、和多田さん。
 その和多田さんは、この近くで呉服店を営んでいます。落語家さんの利用も多く、呉服通として知られる桂文枝さんもお客さんの一人だそうです。