八軒家の船着場

 新年最初の放送は、天満橋近くに拠点を置く「NPO法人大水都史を編み後世に伝える会」をご紹介しました。会員の倉内直也さんによると、倉内さんが勤務する広告制作会社会長の井上道三さんが、京都より歴史のある大阪には戦災も原因して石碑ぐらいしか歴史を示すものが残っていないため、web上でアーカイブ(保存記録)化していこうと、2005年に設立したのがこの会。
 古代の大阪は上町台地のすぐ先まで海であり、その後も町中に多くの水路が流れ、八百八橋といわれるほどの橋がありました。戦後は埋められて道路になり、多くの橋が姿を消したため、大阪人ですら水都に住んでいる感覚がなくなっていますが、全国に八つある水都と呼ばれる都市の中でも最大の大阪を「大水都」と位置づけ、そうした切り口で歴史を掘り起こすことにしたそうです。活動開始に際し、大阪のすべての橋についてデジタル情報化しようと試みたそものの、あまりに多いために断念。自分たちの職場である八軒家の歴史から手をつけようと、2008年に「八軒家かいわいマガジン」を公開したということです。

京屋忠兵衛跡のあるチーズ店

 八軒家かいわいマガジンの最大の特徴は、webではほとんど見ない縦書き文字のサイトであること。編集長の津川義明さんによると、webサイトは横文字文化から生まれたため、縦書きを想定しておらず、技術的に相当困難。しかも、需要がないためこつこつと作業していく技術者もいない。しかし、日本語は縦書きが一番美しいと考え、絵巻物のような縦書きページを開発したのだそうです。
 編集方針にもこだわりがあります。メインは「八軒家タイムトラベル」という記事で、公開される月にあわせ、何年か前のその月に起きたことを取り上げるのを基本にしたものです。例えば11月なら、嘉永7(1854)年11月4〜5日に起きた安政東海地震と安政南海地震、それに伴う大津波を取り上げています。これまでで最も反響が大きかったのは「八軒家新選組事件簿」だったそうで、大阪における新選組の初期の定宿であった八軒家の京屋忠兵衛という船宿を中心に繰り広げられた、新選組の事件を取り扱ったものでした。

島町通から見える大阪城の一部と生駒山

 お話を伺った後は、八軒家かいわいの歴史スポットを散策。津川さんが最初に連れてきてくれたのは、北大江公園南側の島町通。津川さんの持論では、ここは大阪の通りで唯一大阪城が見える場所だそうです。横に生駒山も見えますが、秀吉が盛り土をして大阪城を築城するまではここから一直線に生駒山が見えたはず。後拾遺集にある良暹法師の「渡辺や大江の岸に宿りして雲井に見ゆる生駒山かな」のビューポイントも、この辺りだったのではと津川さんは推測しています。
 一方、北大江公園の北側にある石町(こくまち)は、奈良・平安時代に国府が置かれていたところで、国府の町が石町の地名の由来になったと言われています。さらに、北大江公園は秀吉の片腕として活躍した蜂須賀小六の屋敷があったところだとも推測されるそうです。理由は、小六の屋敷が御殿山と呼ばれていたため。この辺りで一番高い土地はこの公園であり、それ故、屋敷跡と考えられるのだそうです。

熊野街道起点の碑

 次に訪れたのは、土佐堀通に建てられた熊野街道起点の碑。平安時代の末期、貴族の間で熊野詣がブームになり、京都から船でここに着いた彼らは、10日ほどかけて陸路で熊野まで行きましたが、その起点がこの辺りだと思われ、大阪市が平成2年にこの碑を設置しました。当時、ここには窪津(くぼつ)と呼ばれる港がありましたが、周辺はかなりへんぴな所だったようです。その後、中世の頃は渡辺党という侍集団が住む渡辺津となり、江戸時代には八軒の船宿が並ぶ八軒家となってにぎわいを見せました。
 明治の初期まで現在の土佐堀通の半分は土佐堀川でした。つまり、船宿が並んでいたのは土佐堀通南側で、新選組の初期の定宿だった京屋忠兵衛や薩長の定宿だった堺屋源兵衛もここにありました。新選組が相撲取りと喧嘩したとか、天神橋の上で悪代官を斬り倒したとかいった事件を起こしたのも、彼らがここに泊まっている頃のことだったのだそうです。