吉祥寺の山門は
四七士の羽織でお馴染みの山形模様

 地下鉄谷町線の夕陽ヶ丘駅から谷町筋を北へ300メートルほど。ひときわ目を引く山形模様の塀に朱塗りの扉。中に入ると、そこには大石内蔵助の石像が。吉祥寺(きっしょうじ)は、 寛永7(1630)年に創建された曹洞宗の禅寺。 村山雅雄住職によると、四十七士による討ち入りがあった時代(1702年)の住職、 縦鎌(じゅうけん)和尚が赤穂の武士出身だったため浅野内匠頭(たくみのかみ)と親しく、赤穂藩士がいつも立ち寄るお寺となりました。浅野家の祈願所として、また内匠頭の帰依(深く信仰するという意味)を受けて大阪の菩提寺となり、江戸の泉岳寺と同じ万松山(まんしょうざん)の山号(泉岳寺は萬松山)を内匠頭から与えられました。
 参勤交代の際には必ず立ち寄ったと記録されいますが、船で堺の港まで運んだ赤穂の塩を、お寺のすぐ東側を通っている熊野街道で中之島の蔵屋敷まで運ぶ際にも立ち寄ったようだとのことです。

境内にある討ち入りの石像

 この吉祥寺で毎年12月に開催されるのが大阪義士祭。主催する大阪義士会の北川喜久造会長によると、昨年までは討ち入りと同じ14日に開催していたものの、平日だと子供討ち入りに参加する子供たちの集まりが悪いため、今年から初めて日曜日の開催となったそうです。今年は12日(日)に開催されます。
 当日は午前中に法要が行われ、午後1時30分に四十七士に扮した子供たちがお寺を出発。今年は日曜日のため恒例の府庁や市役所への“討ち入り”はなく、大阪城や新歌舞伎座へと行くそうです。この大阪義士祭、戦後しばらくは敵討ちといった発想を恐れたGHQにより禁止されていましたが、昭和28年に再開される際、当時、子供たちに最も不足していたお菓子を大阪府知事や市長が与えようということになり、子供討ち入りが始まりました。討ち入りが世に一石を投じたことにちなみ、子供たちが府庁や市役所を表敬訪問し、いい世の中にしてくださいとの口上を述べるようになったそうです。
 大阪義士祭では、この他、討ち入りそばの販売、詩吟、奉納武道、奉納太鼓、奉納津軽三味線、奉納浄瑠璃、奉納落語(ざこば一門)などが行われます。

中央が内匠頭の供養塔
両脇を大石内蔵助・主税が固める

 ところで、四十七士の墓と言えば東京の泉岳寺が思い浮かびます。どういういきさつでここにもお墓が出来たのでしょう。
 大石内蔵助をはじめとする赤生義士が元禄16年に切腹した際、身分が足軽だったために幕府から切腹を許されなかった寺阪吉右衛門が四十六士の髪、爪、鎖帷子(くさりかたびら)などに銀十両を添えて、江戸では幕府に遠慮して墓を造れなかった義士たちの冥福を祈るため、吉祥寺に建碑を依頼したというのが真相のようです。ただし、当初作られたのは大石内蔵助と主税の墓だけで、他の人の墓は後の時代に造られ、玉垣の形で取り囲むように並べられています。また、墓の中央に浅野内匠頭の墓である五輪の塔がありますが、これは浅野の本家芸州侯の依頼により建てられたものだそうです。
  なお、山門の山形模様は討ち入りの際の羽織柄として知られていますが、実際には江戸で仰せつかっていた大名火消の装束で討ち入りをしたと思われるそうです。この山形模様はお寺に寄進されている歌川国芳の浮世絵に描かれたものをモチーフに、現在の住職のお母様がデザインされたそうです。

ビルの谷間に坐る大石内蔵助

 境内には四十七士の石像があります。これは、討ち入り150周年の際に建立した義士の木像が焼けてしまっていたため、討ち入り300周年に向けて国芳の浮世絵を立体で再現すべく、村山住職が中国に渡り、現地の石工に相談しながら2年がかりで建立したものだそうです。
  また、山門を入ったところにある大石内蔵助の大きな像は、以前、人間国宝の博多人形師・置鮎與一(おきあいよいち)氏により寄贈された博多人形を元に造られたもので、やはり中国の石工の手になるものだそうです。内匠頭が切腹した短刀を右手にし、討ち入りを決意した内蔵助の様子が表現されています。

 ■大阪義士祭
   2010年12月12日(日) 午前10時〜
   会場:吉祥寺(地下鉄谷町線夕陽ヶ丘駅の北)